2007年12月31日終筆。
450

 夜が明かりを奪っていく。私は夜に奪われていく。人工の光ではよほど強いものでもない限り、私は希薄になる。
 私は七歳を境にして、私は私の影と入れ替わってしまった。でも誰一人として気がつかない。「私」はここにいるのに、私はいつも明るく笑顔で振舞っている。
 でも、もしかしたらこのような状態になっているのは私だけではないのかもしれない。そう、私が入れ替わる前、私と友達の間では影取りという遊びが流行っていた。あれがいけなかったのだろうか。だがいまさら考えても意味がない。誕生日の朝には入れ替わっていたのだから。私は私の影になった。
 影になった当初は戻れないのならいっそ死んでしまいたいとまで思っていたけれど、それを言うのなら毎晩夜が来るたびに死んでいるようなものだ。慣れてみれば影でいるのも悪くないな、と思うようになった。思えば学校のイベントでも裏方に回るような性格の私には凄く適しているのかもしれない。勉強せずにぼんやりしてていいし。
 でも少し怖いこともある。いろいろと忘れていってしまうのだ。たくさんやりたいことがあったはずなのに、今ではいくつかが達成されて、両手で数えられるほどのことを覚えていて、あとの大半は忘れてしまった。暗くなって夜に同化する影のように、形のない何かに私の記憶も溶けていってしまっているのだろうか。
 でももしそうなら、せめて表の私はそれを覚えてくれているといいなと思う。きっと私はいずれ考えることも忘れてしまうから。

449

 私の短い旅の道連れは、奇妙な連中だった。そもそも、私の旅と呼べるのか判らない短い旅すらも、奇妙なものだった。
 気がついたら電車の中に居たのだ。混乱に陥らなかったのはただ、その電車の行き先が見覚えのあるもので、途中に私の家の最寄駅に止まるからに他ならない。
 旅の連れは子供が二人と青年が一人、そして中年の男が一人だった。彼らは幽霊だった。儚げな存在感で、大人二人はどちらも青白い気鬱そうな顔でただひたすらに塞ぎ込んでいるように見えた。子供らも気鬱さは見受けられなかったが、どこか青白い。
「見ない顔だな」
 中年の男は私に言った。どこぞの居酒屋でもない、電車でそのような台詞を貰うとは想像だにしなかった私は面食らう。中年の男は陰鬱な笑みを浮かべて、私の考えなどお見通しだとばかりに言う。
「すぐに判る」
 それだけ言うと、男は役目は果たしたといわんばかりに再び自分の世界へと戻ってひたすらに陰鬱な空気を振りまく作業に戻ってしまった。私は不安になって、別の話し相手を探そうと試みるも、子供らは遊ぶのに夢中のようで話など聞いてくれそうにないし、青年は話しかけたら自殺してしまいそうなほど重苦しい空気を発していた。
 私は仕方なく一人物思いにふけり始める。車内の空気が耐え難いほどの重圧で満たされる頃、ようやく変化が訪れた。
 電車が駅で止まり、青年がふらふらと危うい足取りで降りた。私は青年を横目に見送り、発車を待つ。意外と長い停車時間だと私が感じ始めたとき、降りたはずの青年がその顔により濃い悲壮感と絶望感を携え、再び乗車してきた。青年の乗車を待っていたかのように電車は扉を閉じ、再び出発する。
 次に止まった駅では中年の男が降りたものの、電車が止まっている間に戻ってくる。そして男が戻ると扉が閉まり、電車が走り出すのだ。何かがおかしい。中年の男は私の怪訝な視線に気づいたようで、口元を吊り上げた。
「何がどうなってるって言いたげな顔をしてるな」
 男はそう言って、私の答えを待たずに言葉を続ける。
「出られないのさ。出るための手段を持っていないからな」
「手段?」
「切符さ」
「なら事情を説明するなり、買いなおすなりすればいいのではないのか?」
 男は私の言葉を鼻で笑って、肩をすくめた。
「そうだな。機会があったらそうするよ」
 それきり男は私と会話を続ける気をなくしたようにそっぽを向いた。私も続ける言葉を見つけ出せずに、黙り込む。
 再び重苦しい沈黙が広がり始めながらも規則正しい振動で電車は走り、やがて私がよく見知った駅で止まると、私は彼らがそうしたように降車した。
 見たところ、ホームは完全に死んでいた。空は塗りつぶされたように真っ黒で、光るものが何一つとしてないホームはひどく寂しげだった。電車の明かりのみが頼りなくホームを照らし出している。まるで既に役目を終えて廃されたかのようなホームを、私は早足で歩く。改札まで来ても誰一人として居らず、自動改札も完全に死んでいた。
 改札は確かに全てを拒絶していた。まるで機能しているようには見えないというのに、外からも内からも、全てを分断する壁のような存在感で私を構内に留め置こうとしているようであった。出て行こうと思えば、乗り越えて出て行けるのではないか。その考えも持たなかったわけではない。だが改札の向こうにも生命や気配を感じさせるものは何もなく、それならばまだ電車に乗っているほうが安心できる気がしたのだ。
 不気味さに寒気を感じ、私は上着のポケットに手を突っ込んだ。指先に何かが触れる。出してみると、それは切符の形をしていた。電車から離れたこの場所では光も届かず、何が書いてあるかは非常に判別しにくかっただろうが、それはあまり問題ではなかった。表面には文字は何一つ記されていなかったのだ。
 私は恐る恐る、期待を込めて改札に切符を滑り込ませてみる。改札は相変わらず完全に死んだ機械のようだったが、切符を滑り込ませるとちゃんと飲み込み、道を塞いでいた扉を開放した。
 私は息を飲む。
 思わず電車の方を振り返りかけて、思いとどまった。何故だか振り返ってはいけない気がしたのだ。
 私は僅かに震える足で改札の向こう側でと踏み込んだ。
 一瞬目が眩む。私は圧倒的な明かりと、命ある雑多な音の世界へと放り込まれた。少し呆然とした後、すぐに状況を認識していく。
 戻ってきたのだ。後続の人が立ち尽くす私を邪魔そうに避けていく。私はそこで慌てて振り返った。ちょうど電車の扉が閉まり、出発し始める。その電車に中年の男と青年、そして二人の子供の姿はない。たくさんの人が、少し疲れたような顔で乗っているだけだった。
 私は駅を出て空を見上げた。僅かながらも星が瞬いているのが見える。そうか、と唐突に私は気がついた。何故私が出られたのか。私はまだ生きていたのだ。

448

 人が老いるように、地球も老いた。何億年と年を重ねてきた。また地球が老いてきたということは、同時に海も同じくらい年を重ねてきたということになる。
 海もその広大さを年月と共に更に増し、誰もが推察することすらかなわぬその深慮さにますます深みが加わった。
 海は緩やかで、気の遠くなるほど長い逡巡の末にひとつ案を巡らせた。自分の中の住人たち、またそれ以外の生命と意思疎通するためのメッセンジャーを生み出そうというものだ。だがその海から外界との繋がりとして遣わされたメッセンジャーは、その役を担うには荷が重すぎたのだ。
 メッセンジャーはその役を早々に忘れてしまい、海の住人を始めとして、知的生命を自称する地上の人間たちもそれに気がつくことはなく、皮肉にもそのメッセンジャーに海老と名づけて、今日でも正しいメッセージを読み取ることなく、美味しく食べている。

447

 この年に発表された「ぶつかる可能性がある」彗星は可能性で終わってはくれなかった。寄り道もせずに、律儀にまっすぐ地球へと向かってきていた。天文台の人間は何度愚痴を漏らしたことだろうか。「腹をすかせた犬じゃないんだから、わざわざまっすぐ来てくれなくてもいいのに」「彗星が目視できるくらいになるまで黙ってた方がよかったよ。重圧感がひどい」
 大統領の公式発表で、世界は一瞬静まった後、蜂の巣を突付いたような騒ぎになった。「私は人類の皆さんが最期まで冷静であり、奇跡を祈ることを願っています」大統領は言ったが、それでどうにかなるような事態ではない。ただでさえあらゆる動物が今まででは考えられなかった突拍子もない行動を起こし、人々は一抹の不安とともにそれを報道し、やり場のない不安とともに受け止めていたのだ。そしてその正体を知っても対策を立てようもないことを悟ってしまった。
 とある家族は家に閉じこもって、震えながら事態の趨勢をテレビで見ていた。とある修行僧は静かに祈っていた。とある団体は「ようこそ地球へ!」と書かれたボードを空に向けて掲げていた。とある市では治安という言葉が叩きのめされ、殺人、破壊、強盗を始めとする暴動が起きていた。とある土手では恋人同士が愛を語らっていた。とある街では何人もの、何十人もの、何百人もの人が手を繋いで空を見上げていた。
 発表後何日かが経ったが、もう衝突は避けられそうにないところまで来ていた。空に、徐々に大きくなる特異点が見え始めている。
 人々は奇跡を祈っていた。一見そうは見えない人も、心のどこかでは奇跡を祈っていた。
 奇跡を祈っていない人はたった一人しかいなかった。
 とある人気のない山岳地帯に居る、一人の少女である。
 少女は確実に迫り来る破滅の姿をじっと見ていた。その手にはバットが握られている。特別なバットではない。少女が麓の街まで降りて、手持ちの全財産であるおよそ二千円ほどの価値のお金で購入したごく普通のバットだ。少女は特別体つきに特徴があるわけではない。この辺りでは標準的な体つきで、どちらかというと栄養が少し不足気味に見える体つきをしている。そんな少女がまっすぐに立ってバットを構え、一直線に向かってくる彗星を見つめている。
 奇跡を祈らないたった一人の少女は、目に縋る意思ではなく闘志を宿して。

446

 空には星がありました。たくさんの星がありました。
「我々で最後だ」
 うちゅう服を着た人間が言います。人間たちは、ぼくたちの方を向いて敬礼をしました。
「我々の大地に」
『大地に』
 一人が言うと、他の人間が続きます。
「我々の故郷に」
『故郷に』
 中には涙すら浮かべている人間も居ました。なにが悲しいのだろう。なにを泣いているのだろう。今日はこんなにも星がよく見える日なのに。
「さようなら、地球の友よ」
 人間たちはロケットに乗り込み、扉を閉めました。
 ロケットが飛び立っていきます。ぼくは胸が痛みました。人間のお医者さんが以前話していた病気だとすぐに気づきました。その病気は、「さびしさ」と呼ばれています。
 最後の人間たちを乗せたロケットが星の間に消え、ぼくの胸のうちにはさびしさが残されました。
 さようなら、人間。さようなら、友よ。

445

 国が水面下で一触即発状態になるほどの事態を巻き起こしたナノディスクになにが入っていたかというと、少なくとも当事者たちは未来で何らかの言葉を記憶したデータが入っていると信じていた。
 結果だけを述べると、実際その通りだった。ナノディスクに入っていた音声データは、今から八年と三ヶ月後に録音されるものだ。
 問題は中身である。中身があまりにも予想外かつ失望するようなものだったので、なかったことにされた。一番最初にそれを聞いた組織の人間が「そんなディスクは存在しない」と言い出したのだ。
 怒ったのは聞けなかった人間である。何らかのイベントでも、あぶれて外にいる人間は「中ではきっと面白いことが行われているに違いない」とやきもきして考えるように、世界を根底から揺るがす恐ろしいメッセージが入っているに違いないと考えた。
 そこから陰惨な陰謀劇が始まった。水面下という状況は同じながら、どんどん行方不明という名目の死体が積み上げられていった。
 誰かが策謀の末にディスクを手に入れて聞き、そのディスクを処分しようとして、また同じことが繰り返される。
 ナノディスクの存在を知っていて、それを付け狙っていた組織の人間たち全員がそれを聞く頃にはナノディスクはタブーとされていた。いくつか理由はあったが、もっとも表に出せる理由として妥当なものは「何かヤバそうなものということにしておかないと、死んだ人間が浮かばれないから」というものだった。

 数多くの陰に生きる人間たちを突き動かし、肩を落とさせたものの中身は単なる口頭メモで、どうしてこんなものが八年もの過去に流れ着いたのかはまるで判らない。口頭メモは以下の様な言葉から始まる。
『うどんのつくりかた』
 のんびりとした喋りで七分五十秒程度で語られるうどんの作り方は、当初は何かの隠喩かと散々論議されたが、実際最初に見つかってから八年と三ヵ月後に、政府の職員がたまたまネットで見つけたうどんのつくりかたを口頭でメモしただけだと言うことが判った。  関係者は揃って肩を落とし、一部は激怒してその職員を首にした挙句、そのディスクを捨ててしまった。
 首にされた職員はディスクだけでも持って帰ろうと探し回ったが、既にどこにも見当たらなかった。

444

 不幸にも度々勘違いする者が居るので今一度書き記そう。惑星アルバは、ナントカ保護団体に好きなだけ保護をさせるために作られた密林まみれの人工惑星であり、ナントカ保護団体が一人も居ない理由に呪いや陰謀などといったことは一切関係ない。それは都市伝説にも満たない中傷レベルの話だ。彼らがどうなったのか知りたければ情報統合局に行くといい。ただし性格がまるで変わってしまったり、ある部分の記憶が抜け落ちていたとしても責任はもてない。<惑星アルバ 広報>

 動物保護団員らしき人を見た? それは結構。だが気をつけたまえ。精神がまともではない。精神がまともではない動物保護団員は動物図鑑にも記載されているので、確認すると良い。情報は頼れる友となる。<惑星アルバ 観光>

 アルバで暮らす。悪くない。だが覚悟は要る。ただの人死に程度なら事故として処理される。<惑星アルバ 行政>

 狩りをしたければするといい。気の狂った動物保護団員に見つからないように。<惑星アルバ 広報>

443

 いくつかの書物に共通する事柄としては、星の預言書というものがあり、それは猫によって管理されているとも、少なくとも猫には管理されていないとも、そもそもそんなものは存在しないというものがある。
 これらから判ることは、ある時代に星の預言書という言葉が人気を博し、そして猫になんらかの関係があると言うことだ。存在の真偽がどうであろうとも、だ。
 星の預言書について肯定的な書物にはこのように記されている。
 星の預言書には、死を予見する猫が星の死期について書いたものであり、それには我らが良く知るこの太陽系にある惑星の死期も書かれている。もちろん、地球もだ。見ない振りをしたほうがいいこともある、とは考えない人間や好奇心を詰め込んだだけのような人間がそれを酷く知りたがった。星の預言書を管理する猫は、興奮した大衆に驚いて誰も(少なくとも人間には)見つけられぬ場所へ星の預言書を隠してしまった。
 ここで疑問を三つ書き残しておく。
 一つは一般的な猫にそれを読み解くだけの頭脳があるのかということで、一つはそもそも人間の言葉ではないのではないかと言うことで、最後は予言ではなく預言なのだから実はもっと違うことが書いてあるのではないか、ということだ。

 一方星の預言書について否定的な書物にはもちろんこのように記されている。
 星の預言書などと言うものは存在しない。何故なら私は見たことがないからだ。ましてや猫が管理しているなどとは馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そのようなたわ言は信じるに値しない。

 この意見に、肯定的な書物の改訂版では反論が記載されている。
 曰く、猫が管理していることを信じられないのはアンタが猫に嫌な思い出があるからであり、アンタが見たことがなくても存在するものはたくさんある、とのことだった。
 さらに否定的な書物の改訂版では反論が記載されたが、それはもう唯物論になっていて、出版社が気を利かせたのか読者も意見を書き込めるように余白を百頁ばかり作って、今後は一切関知しないと公言した。
 こうして星の預言書の真偽は愛猫家と唯物論の議論の中に埋もれて、雲のように飛んでいってしまった。

442

 ――アクセス成功。
「よし!」
 セッティはその文字を見た瞬間に握りこぶしを作った。
 今現在では使用されなくなって、どこからもリンクを切られているはずの空間に接続することに成功したのだ。違法ではないが、非常に危険なので警告が山のように沸く。言わば穴ぼこだらけの紙箱、しかも穴が開いていない部分でも水でふやけて、いつ破れて潰れてしまってもおかしくないようなところに踏み入るのである。
 だがそんな放棄された空間は現在使用されている空間と同じくらいあるので、「再利用」といかにもな口実で踏み入るのだ。
 セッティは、見つけた空間がどんなところかとわくわくしながら入る。
「っと……」
 中空からホールを作って着地して、辺りを見渡す。はるか高みにまでそびえる、草一つ見えない岩壁と川。都市部じゃないのか、と少し肩を落とすがそれでもほころびも少ない見事な場所だった。
「うわ」
 セッティは振り返って広がる光景に驚き、肩をすくめる。
 巨大な洞窟だった。中に入れば空が重苦しい岩で埋められてしまったかのような錯覚を覚えるほど、巨大な洞窟だった。ドーム状になっている洞窟で、横幅も奥行きも底知れない。
「すごい……」
 都会から出たことがないセッティにとって、なんとも感動的な光景だった。こういった場所が嫌いというわけではなかったが、特に好んでいるわけでもなかったために自然の名所といった態の場所には来た事がなかった。しゃがみこみ、砂を少し手にとって見る。異常なし。手から地面に砂を落とす。わずかにノイズが混じる。ノイズの方が勝って空間の崩壊が始まると、そこは見るも無残な廃墟となる。無限に広がるノイズの地面とノイズの空。目印のようなものは何一つとして存在せず、居続けると頭が狂うか、死にたくなるか、自分から狂うしかなくなる。ノイズしかないために自分という存在もノイズに過ぎないのではないかという感覚にとらわれ始め、サイバースペースにある電子の精神体にすぎない体はノイズの廃墟を構成する一部となり、精神が消滅するのだ。
 まだ比較的廃されてから時間が経っていないのか、結構長持ちしそうな空間だった。しかしプライベートスペースにするには無駄に広すぎて少し寂しいかもしれない。都市部のような人口建築の多いほうがプライベートスペースには向いている。少なくともセッティにはそうだった。
 セッティがそこまで考えた時だった。洞窟の奥のほうに白い特異点があることに気がついた。目を細めてみるが肉眼ではいまいち確認できない。
「特異点拡大」
 洞窟内に探査プログラムを走らせて白い何かを拡大する。
 人だった。白いワンピースを着た少女が、気鬱そうに座り込んで顔を膝の間に埋めている。
(先客かな)
 セッティはそう思うと同時に、苦いものがこみ上げてくる。せっかく見つけたのだが、どうやら自分のものにはなりそうにない。暗黙の掟として、先客が居たら身を引くのが礼儀だった。
「すいません」
 セッティは仕方なしに人影の元まで歩いていって声をかける。
 白いワンピースの少女はゆるゆると顔を上げた。顔には生気がなく、目元が黒ずんでいて、セッティは思わず少し距離を置いた。
(ドラッグ中毒!?)
「なんか用?」
 白いワンピースの少女の声は思ったよりもしっかりしていた。
「えーと、その」
 セッティは困って、ジェスチャーを交えながら説明しようとしたが、肝心の説明するものがなかったので不思議な踊りを踊っているようにしか見えない。
 白いワンピースの少女はゆるゆると顔を下げた。
「いや待って。あるんだって、あー……、ここはあなたの場所?」
 白いワンピースの少女は半分だけ顔を上げて答える。
「違う」
「え、違うの?」
「違う」
「誰の場所?」
 セッティは声を潜めて聞いた。下手な大物が唾をつけているような場所であれば、すぐに出ないと強力な駆除プログラムを差し向けられかねない。リンクが切れている、と言うことを逆手にとって空間ごと押しつぶされることもある。そうなると精神体を戻すことが出来ず、いくつかの意味で死ぬことになる。セッティは自分で作った緊急脱出プログラムを一動作で起動できる状態にする。
 白いワンピースの少女は、無言でセッティを指した。セッティはとっさに振り返る。誰も居ない。
「私?」
「そう」
「そんな馬鹿……」
 な、と言おうとしてセッティは止まった。白いワンピースの少女が空間情報を呼び出してセッティの前に表示させたからだ。そこにはセッティの名前とセッティの管理コードが記されていた。
「どういうこと?」
 セッティは目を白黒させつつも怖くなって聞いた。ここはリンクを切られた、打ち捨てられた空間なのだ。管理コードが通るはずがない。
「この空間は」
 白いワンピースの少女は顔を上げながら話し始めた。
「取り置きされた空間の一つ。今から七十五時間と三十二分後にウイルスプログラムが放たれる」
「は?」
「ここを守り通さなければいけない。出来なければ、相応のペナルティが与えられる」
 セッティは全容が見えてきて思わず頭を押さえた。ここはゲームのための空間だ。捨てられた空間を保存しつつも放置しておいて、餌が掛かったら強制的に管理権限を与え、逃げられないようにする。そこにあらかじめ繋いでおいたパスを経由してウイルスプログラムをぶつけるのだ。意図は新しく作ったウイルスプログラムの強靭性を試すことで、大概の管理者は新しいウイルスプログラムに対処しきれずに汚染され、空間ごと電子の海の藻屑となる。しかも大抵は自分がそのゲームに巻き込まれていることにすら気づかず、わけのわからぬまま飲み込まれていくのが常だ。
「あなたは何? 共同管理者?」
 セッティの意識がようやく、本格的にこの白いワンピースの少女に向いた。おそらくウイルスプログラムのことを知っていて、しかもその情報を流したと言うことは一緒に対処する共同管理者なのだろう。……そうだとすると、管理コードがセッティ一人分しかないのは妙だ。
「違う」
「じゃ、何」
 白いワンピースの少女は答えようと口を開くが、声が出ていない。セッティの様子を見てそれに気づいた白いワンピースの少女はざらざらと錠剤を手に出して飲み込んだ。
「クアレンス端末」
 セッティは一瞬名前かと思ったが、すぐに違うと思い直す。よりによってその名前を使う人間は居ないはずだ。クアレンスとは次世代サイバーネットワークのマザーになると言われているプログラムで、目下開発中のはずであった。
「クアレンスって……なんでそんなのがここに?」
 クアレンスはうつろになってきた目をセッティに向けつつ答える。どうも焦点もあやふやになってきているようだ。クアレンスが服用したのはどう見てもドラッグの類にしか見えなかったが、存在を固定するための薬でもあるようだった。
「移動中に出口を埋められたの」
 セッティは考え込む。何やら面白くなってきた。ゲームに巻き込まれて管理権限を押し付けられて、三日と少し以内に未知のウイルスに対する防壁をくみ上げなければならないのは癪だが、次世代機の雛形の端末が一緒に居るのだ。どうも万全なコミュニケーションをとれそうな精神状態ではなさそうだが、万全ではないコミュニケーションならとれそうな精神状態ではあるようだ。
「防壁組める?」
 クアレンスは視線をうつろに彷徨わせた後で頷く。
「そう、よかった。じゃあ協力しましょうよ。私はセッティ。よろしく」
 セッティが手を差し出す。ゆっくりと差し出されたクアレンスの震える手を掴み、優しく握手をした。

441

 最大手の通販サイトで、わたしは前々から狙っていた宇宙船を買った。
 個人用のもので、値段は430万円。出た当時でも720万円だったことを考えると、随分と安くなったものだと思う。高い事には変わりないが、宇宙への浪漫を個人で買うには妥当な値段だろう。
 でも問題がある。燃料は何処へ行くにしても片道分しか詰めない。飛び立つ際に消費する燃料がちょっと大きすぎる。おそらく、宇宙へ出たらそれっきりになる可能性が高い。
 だからわたしは未だに地球にいる。宇宙の本、宇宙の映画、宇宙の写真、それらを集めて眺めている。いつか本物の星空へ到達するその日まで。

440

 天井のない工場跡に四人の男女が居た。一組は少年少女。少年はキリヒトと呼ばれており、理知的に見える顔立ちとは逆に頭の悪そうなシャツに短パンで、少女の方は伊都と呼ばれ、鼻が高く赤の強い黒髪を縛るでもなく自由にしており、どこかの制服らしきものに身をつつんでいる。もう一方は青年と少女。青年は永岸という名であり痩せぎすで、結構苦労してるんだろうなと思わせる顔立ちで、砂埃で汚れきったスーツを着崩している。そしてこの四人の中で一番異質であり、中心であるのは青年と一緒にいる少女だった。
「あの子は……」
 伊都が呟いた。伊都が見つめる少女は黒い衣装に身をつつみ、やせ細った手足は鉄の首輪から伸びる鎖でつながれ、呪が記された包帯で目元をぐるぐる巻きにされている。敵対する能力者である永岸が連れていたのはそんな少女だった。
「さすがに知ってるか? お前はどうだ? 想像くらいはつくだろう?」
 永岸は楽しそうに言う。キリヒトは緊張した面持ちで頷いた。
「逆流の眼か」
 超人的な力に少しでも触れた人間にとって、これほどの脅威はそう居ない。逆流の眼の話は結構な数があるが、それの意味するところは皆同じでたった一つ、
『見られたら死ぬ』
 それだけだった。気の流れを内に向けて活性化させる能力。
 キリヒトの服の裾が小さく引っ張られた。
(逃げましょう)
 伊都の目はそう言っていた。いくらなんでもこの状況は分が悪すぎる。まだ死ぬつもりはないのだ。
「あー、ねえ、ちょっと!」
 キリヒトは突然大声を出して永岸に話しかけた。伊都が驚いてキリヒトを見る。
「何だ?」
「タンマ。作戦タイム」
 一方的に告げると、キリヒトは返事を待たずに隅に伊都を引っ張って、声を潜めて話し始める。
「言いたい事は判ってる。ちょっとぼくの話を聞いてくれ」
 伊都が真っ先に文句を言おうと口を開いたのを制して、キリヒトは言った。
「どうすれば勝てると思う?」
「全然判ってないじゃないですか!」
 伊都は小声で抗議をした。
「別に仮定でもいい。実際できるかは脇においておこう。出し尽くして、どれも可能性がなかったら逃げることを考えよう」
 伊都は口を尖らせて無言の抗議をしていたが、キリヒトも本気だったので口を尖らせて伊都の抗議に抗議をした。
「判りましたよ……」
 間もなくして伊都が折れた。
「どうすれば勝てるか、ですか。まずあの逆流の眼をどうにかするしかないでしょう。見られる前に息の根を止める。それだけです」
 伊都の意見に、キリヒトは唸るようにして少し考えた。
「他には?」
「ありませんよ。あったとしてもまずは逆流の眼はどうにかしないと……」
 キリヒトは意思のない人形のように立ち尽くす少女に視線をやった。隣では永岸が暇そうに携帯をいじりながらタバコを吸っている。伊都も少女を見た。逆流の眼は忌まわしい。だがあの少女は気の毒だと思う。望んで得たわけでもないだろうに。こんな状況でなければ助けてあげたかった。
「一瞬ならできる」
「え?」
「一か八かの賭けだけど、一瞬だけなら目を逸らせるかもしれない」
 伊都が無言で息を呑んだ。
「その一瞬で永岸を殺れるかだ」
「……永岸? 逆流の眼じゃないんですか?」
「いや、永岸だ。あいつを殺せば全てが片付く。……ホントだって」
「判りましたよ」
 伊都は大きくため息をついて言った。どうやら逃げるわけにはいかなくなった。それが判ると、死ぬにしても生き延びるにしても勝負には勝っておこうと伊都も思ったのだ。
 キリヒトは立ち上がる。そして永岸に対峙する前に一言だけ言った。
「逆流の眼の子はな、ルマって言うんだ」


 勝負は一瞬だった。一か八かの賭けは成功した。逆流の眼があったせいで長期戦などはありえないことだったし、永岸は逆流の眼を過信しすぎていた。逆流の眼を持つ少女が、銃のように引き金を引けば作動する道具ではなく、意思のある人間である事を念頭に入れていないことが敗因となった。
 キリヒトと伊都が駆け、永岸が余裕綽々で逆流の眼を開放した瞬間、キリヒトが叫んだ。
「ルマ、空だ!」
 ルマはのろのろとした仕草で空を見上げた。魅入る。
 その一瞬で、伊都が風の刃で永岸の心臓を突いた。永岸が倒れ、ルマが倒れた物音に惹かれた様に永岸を見て、再び顔をあげる。伊都は死を覚悟した。風の力が逆流して、骨に至るまで自分の体が風の刃によってサイコロステーキになることを想像する。
「やあ」
 ルマはこの場には相応しくないほど気さくな調子で言った。
「久しぶり」
 伊都の目が面白いほど丸くなって、少女と少年を見比べる。ルマの眼はしっかりとキリヒトを捉えているのに、キリヒトはどうにもなっていない。
「また助けられたようだ……いや、助けられたのかな?」
 ルマの言葉にキリヒトは肩をすくめる。
「ぼくが君を使うと思ったのか? まさか。好きなところにいきなよ」
 キリヒトの言葉にルマは笑顔を浮かべた。そしてそのまま視線が伊都を捉える。伊都は自分の意思とは関係なく体が緊張したのを感じていた。
「やあ」
 ルマはキリヒトに対するものとまったく変わらぬ調子で言う。
「初めまして」
 伊都は自分の体が今にも引き裂かれるのではないかと、ルマの透き通った紫の瞳を見返して考えていたが、体に異常は感じられない。
「……あ……」
 伊都は何か言葉を返そうとしたが、声がかすれて言葉にならない。目の前に居るのは逆流の眼。最強と謳われた能力者を、能力者たちで作られた軍隊を、たった一人、見つめるだけで殺したという悪夢の体現者なのだ。
「この眼が怖いかい?」
 ルマは言った。伊都は無言で頷く。
 ルマは意地悪い笑みを浮かべると、その笑みのまま左目を抉り出した。
「ひ……!?」
「ガラス玉だよ。綺麗だろ?」
 ルマは左目を空に翳す。
「え……あ……」
 伊都は確認を取るかのようにキリヒトを見た。
「そう言うこと」
「し……知ってたんですか!?」
 キリヒトは微笑を浮かべた。それだけで自分は無駄に心配していたと言う事を伊都は知る。怒りやら安堵やらと様々な感情が同時に浮かんできて、伊都はひとまず大きなため息をついた。
「もう……びっくりしましたよ。本当に殺されるんじゃないかと思いました」
 伊都は少し怒った様にキリヒトに言うと、ルマに向き直った。
「ルマさんも人が悪いです。でももう大丈夫ですよ〜。これからはお姉ちゃんが守ってあげますからね」
 伊都はルマを強めに抱きしめる。ルマは伊都の突然の態度の変化に目を白黒させて、説明と助けを求めてキリヒトを見るが、キリヒトはわざとらしく他所を見ていた。
「こんな鎖なんてつけられて重かったでしょう」
 伊都はルマから少し離れると、首輪と手足の戒めを切って投げ捨てた。
「あ……ありがとう」
 ルマが手首を摩りながら言うと、伊都はその手をとって優しく摩りながら言う。
「痛かったでしょう。もうこんな事は絶対にさせません」
「お、おい、キリ、この娘はこれが素なのか?」
 声をかけられたキリヒトは、少し考えた上で答えを出した。
「どうやら気に入られたみたいだね」
「そ、そうか……」
 ルマは戸惑いがちに納得する。
「ねえ、伊都」
 キリヒトがルマに擦り寄っている伊都に声をかける。
「一応言っておくけど、ルマの右目」
 言われて、伊都はルマの右目を見る。ガラス玉である左目と同じくらい綺麗で、透き通った紫。
「それは本物の逆流の眼だよ?」
 キリヒトの言葉は真実で、ルマの右目は能力者も能力者の軍隊も殺したし、またこれからも殺せる眼だった。
 だが伊都は信じない。
「またまたー。さすがにもう騙されませんよ。だってそれなら私だって死んでるはずじゃないですか。ねー?」
 伊都の言葉と満面の笑顔に釣られて、ルマは引きつった笑いを返した。
「あのね、逆流の眼って言うのは……」
 キリヒトは説明を続けようとしたが、ルマが無言で制して首を振った。
 いずれ知る事になる。だから今はそれでいい。ルマはそう思っていた。好きなところへ行けとキリヒトは言った。ならば、とルマは思う。行くところはもう決まったようなものだと。

439

 先日、若き天才哲学者が完璧に、一分の隙もなく神の不在を証明した。
 不在を証明された神は存在するわけにはいかず、消滅した。
「神は居ない」
 それが真実になってしまった今、人は拠り所を失ってちょっと落ち込んだが、やがて一人で生きていく術を探り始めた。
 それでもたまに、寂しくなったり挫けそうになったりするとちょっとタウンページを手にとって、神に電話をかけてみる。
「現在、この番号は使われておりません」
 そんな定番のアナウンスを聞いて、ああ本当に神は居なくなったんだと改めて実感するのだ。

438

 公序風俗に反するという理由で、アニメに血液表現における規制が生まれた。
 最初は明文化されておらず、名目上は子供向きのアニメでそれはよろしくないだろうというなあなあだったために、苦情と疑問とそれらに便乗した声が殺到するようになってきたので、規則を原材料に盾を作る必要にかられたのだ。
 だが苦情と疑問とそれらに便乗した声を発する人たちは血液表現の規制が気に食わなかったのではなく、ただ苦情と疑問とそれらに便乗した声を発する事が好きなだけだったなのであまり効果はなかった。
「公序風俗に反しないアニメには血液表現を認めろ」
 それが主張になっていて、問題は誰が公序風俗に反しているか否かを判断するかという事だった。あまりに偏っているとどちらかが納得できない。納得できる人物が必要だった。製作者側に近すぎず、視聴者寄りでもない、そんな人物が。
 そこで選ばれたのが東田という男だった。
 この男は世界でも五指に入るほどの頭脳を持っていて、しかも洒落ていて、問題は性格だけだというほとんど完全無欠の男だった。
 東田は実に公正な判断で公序風俗に反するか否かを判断していった。時々明らかにおかしいものもあったが、東田がそう言うのならと文句は出なかった。例えば明らかに公序風俗に反していそうな「電子風俗斡旋所」では血液表現の規制はかからなかったのに対し、前衛的かつ斬新的、しかも壊滅的につまらない「洗濯機の塔」は作中に血液のけの字も出てこないにもかかわらず、厳重に規制をかけられた。
 「電子風俗斡旋所」は血液の色など何色でも何の問題もないくらいトチ狂ったアニメだったし、「洗濯機の塔」は放映局や放映時刻を知らなくてもなんとも思わないほどのアニメだったので問題はなかったが、何人かの生真面目な視聴者が東田の元を訪れて実に真摯な態度でその意図を尋ねた。生真面目な視聴者は、この処置は計り知れぬ叡智に基づいた適切な処置であることは疑いようもないが、是非ともその叡智の断片だけでも明かしてはいただけないだろうかと聞いた。
「理由……理由ね」
 ジェンガを一人で崩す作業をしていた東田は、手を止めて思わせぶりに視線を落とした。さっきコーヒーを股の辺りにこぼしたので、漏らしたように見えないか心配になったのだ。
「簡単さ。斡旋所は俺のキャンタマに響かなかったけど、洗濯機はキャンタマにガンガン響いちまったもんでね。キャンタマがつるぴかに洗浄されるかと思ったぜ」
 東田はこれで満足したろとばかりにジェンガを一人で崩す作業を再開したが、生真面目な視聴者は恐る恐るキャンタマとは何かと尋ねた。
「いいね」
 東田は即座に言ったが、それは自分の見事なジェンガの崩しっぷりになのか生真面目な視聴者の質問に対してかは判らなかった。
「キャンタマはほら、あれだ。夢とか……ロマンとか……それらをまとめて包み込んだような感じさ。二つセットで袋に入ってんだ」
 生真面目な視聴者はなるほどと答えた。なるほどの意味は「なるほど、これはとてもじゃないが理解できそうにないなあ」という事である。生真面目な視聴者は東田の思慮深い回答に感極まって帰っていった。
 少なくとも、東田がアニメの存在そのものが罪だと言う主張の超党派の人間に刺殺されるまでは平和的に続いていたのである。

437

 当時の第七アースの記述は例によって酷いもので、「寒いだけ」としか書かれなかった。理由は寒くて、寒くて……とにかく寒くて……こんな感じに寒い以降の言葉が出てこないからである。
 とはいえ実際寒かっただけではない。大陸を作り間違えて地球っぽさがなくなり、その大陸はいかにも投げやりな感じでアトランティスと名づけられた。寒いだけではなく寂れ果て、ありとあらゆる意味の寒いという概念を寄せ集めたような惑星になりかけていた。
 そこで打開策を作ったのがロベリア・ウィルソン社の一社員だった。主要スポンサーであったロベリア・ウィルソン社は第七アースのおかげで社評まで冷え込んできていたため、早急に打開策を練る必要に駆られ、大規模な人事改革をちらつかせてとにかく意見を集めた。その一社員を大躍進させたのは、仕事帰りに第八アースで酒を飲んでいた際、一緒に飲んでいた見知らぬ男の言葉だった。
 宝探し。
 使い古され、掘り起こされて手垢を付け直した挙句ロケットに積んでどっかへ飛ばしてしまったような言葉を男は引っ張り出してきた。
 アトランティス。宝探し。
 アースマンの一部にはこの二語がとんでもなく探究心を駆り立てるという輩が居るらしい。
 社員は何もださないよりは、という感覚でその二言を元に作り上げた企画書を提出した。
「へえ」課長が言った。
「なるほど」部長が言った。
「そうなのか」専務が言った。
「じゃあそれやってみようか」社長が言った。
 企画はすんなり通った。
 結果だけ話すと、この企画はそれなりに成功して今はどんな旅行誌も第七アースを少しだけ良く書いてくれるようになった。
 曰く、「寒くてビールが飲める」。
 一番人気で数が多い宝が氷に埋もれたビールだったからである。
 無論金塊などの定番ものもごろごろと転がっているため、ちょっとした小遣い稼ぎにも最適です。
 たまの息抜きで手軽に宝探し。おいでの際は防寒装備でどうぞ。レンタルサービスもございます。

436

 緑の野山に座る白い服を着た少女が死を歌い、雪山で黒い動物が凶作を祈る。
 空を泳ぐ雲魚のオスは雲を吐き、メスは雲を食む。
 コケのついた大樹は緑人を生み、緑人は白い花に魅入っている。
 夜の光草は時を止め、月明かりは時を動かす。
 金色の大地で青年は豊穣を唱え、金色の海でイルカが生を謳う。

 これは遠い昔の国に伝わっていた創世神話の出だしなのだが、奇妙な話でこれ以降暫く進んでも意味深なようで無意味な感じの詩が続く。創世神話であるくせに神様も大地も中々出てこない。三章からなる神話で、大地ができるのは二章の終わり、神様が出てくるのは三章からだ。三章はいかにも神話っぽい流れなのだが、一章が全く意味が判らない。もしかしたら本当は二章と三章が神話で、一章は全く違う別のものなのではないかという説も出てきたほどである。だが一章で出て来たものが三章でも頻繁に出てくるため、それは間違いなく創世神話の一章であるはずなのだ。
 その国の文学では必ずと言っていいほど創世神話に描かれていた何かがでてきたり言及されたりしていた。作家がよほど創世神話の事を好きだったのか、計り知れない何かがあったのかはよく判らない。何しろその国の事で判っている事が非常に少ないのである。創世神話は数少ない資料の一つで、他の資料といえば材質不明の日常品や文学作品、まるで用途のわからない奇妙な道具などである。それらから国の歴史を類推しようとしてみてもあまりにも壁が多く、しかもその一つ一つが大きすぎた。
 文学作品は大きなヒントになりそうなものだが、本を作って破いた話だの人が殺されて犯人は手足の生えた魚が海からやってきて食い殺しただの理解に苦しむものが多かった。いや多かっただけならまだよかっただろうが、少なくとも残っているのはそんな類のものだけだった。
 ……いや、一つだけ毛色の違うものがある。蜘蛛の話だ。それも人になった妖怪蜘蛛の話だ。
 話の概要はこうだ。蜘蛛は最初人を喰らい、恐ろしき魔物として崇められ恐れられてきた。神様が人を食うのはいけないよと言ったが七度に渡って無視し続けたため、蜘蛛は別の姿に変えられてしまった。それは今まで喰らってきた人間の姿だった。蜘蛛は美しき女となった。
 蜘蛛は人を食べぬようになり、人としての生活を徐々に営み始めた。ここで蜘蛛は神様が残した恐るべき罰を知る。蜘蛛と愛し合った者に力を与え、蜘蛛を殺すよう差し向けたのだ。力を与えたとはいえど人の身であることを抜け出せず、また蜘蛛を愛した男が蜘蛛を殺す事ができないこともあった。つまり良い見方をするならば蜘蛛が死ぬ心配はほぼなかったと言う事である。蜘蛛はその度に相手を殺し、生き延びてきた。
 蜘蛛は苦しんだ。心をずたずたに裂かれ、誰も愛しはすまいと誓い、その誓いを打ち崩す愛に酔い、それが敵意に変わる経験を何度も繰り返した。
 そして舞台が作品の書かれた現代に至り、話は唐突で理解不能な終わり方をする。蜘蛛が十分に生きた、もう愛する人を殺したくはない。そんな想いを胸に抱いていよいよここからがクライマックスだというところでただ一言、
「そして汝が物語よ、汝の糸を手繰れ。」
 この一言のみが記されており、その後数百ページにも渡って白紙の状態で製本されている。
 そしてこの本にも創世神話の痕跡は存在しており、この蜘蛛というのは創世神話の二章の終わりで大海老と戦った蜘蛛と同じ名前である。作中の蜘蛛は大海老と戦ってはいないが、創世神話でも恐ろしき魔物であるという記述はある。
 だが一見まともそうなこの本が何らかの資料になるかと思えば全くならない。作者が外国好きだったのか、それともその国の出身者が書いたものではなかったのか、舞台は全然違う国の田舎なのである。専門家に打診して聞いてみても、舞台の国の田舎の描写は風習なども踏まえていて結構よくできているらしい。舞台は徐々に都会へと移るのだがあくまでもその国の都会であって、創世神話の蜘蛛が出てきているくせに自分の国のことは名前すら出てこない。学者はこれを知ってこぞって肩を落とした。それでもなおその国の作品であると言えるのは蜘蛛の名前だけではなく、文字がその国の言葉だからである。

 ちなみに創世神話の終わりは始まりの言葉が全て逆転して終わる。金色の海が枯れ、青年は荒野に倒れ、月明かりが時間を逆転させて朝のクラヤミ草が生命を封じ込め、大樹が切り倒されて雲魚はいずことも知れぬどこかへと姿を晦ます。そして黒い動物が死んで白い服を着た少女が餓死をする。
 それから神が去り、生命の卵が残されるのである。

435

 偶然性偶発因子を内包した今までにない画期的なアイデアが実現し、それを搭載した宇宙船が第8アースに着陸した。
 偶然性偶発因子とは読んで字のごとくであるが、簡単な例をあげると何光年か離れた故郷の惑星にある愛用のスプーンを宇宙船に持ち込んでいない事に気づいたときでも偶然性偶発因子のおかげでその状態から持ち込むことが可能になる。もちろん、ズルではない。あらかじめスプーンの複製を作っておいて大仰に取り出すのとはわけが違う。違うのだが、スプーンをスプーンとして使う分にはそうしておいたほうがずっといいことには違いない。
 食器棚にきちんと仕舞われていたスプーンが何光年も離れた宇宙船に届くには様々な偶然が重なる。その経緯を見ることができるものが居たら、一見めちゃくちゃな異なる法則のものが特定の方向に向けて歯車のようにうまい事動いているのがわかるだろう。まず、スプーンがある食器棚を収めた家が偶然突如として起きた時空の歪みに巻き込まれて消える。次に宇宙のどこかでばらばらになった、家を構成していたものがさ迷い、大型テレビとかソファーとかのいいものから順に拾われてなくなっていく。やがて回収された食器棚はバザーで叩き売られ、新しい持ち主が転送装置で家に送った際に中に入っていた食器がいくつか行方不明になる。その中にはスプーンもあり、そのスプーンは本来の持ち主が遅めの朝食を取ろうとグラマティクス社の感思念自動朝食生成機を起動した際に紛れて出てくるのである。ただし転送装置で本来の流れから外れてしまったために色んな箇所が捻じ曲がり、使うにはちょっと不便そうな感じだった。
 このような事態を避ける方法は二つある。偶然性偶発因子をどこかに放り出すか(とても難しい事である)、変化を求めないか(恐ろしく難しい事である)である。間違っても朝起きて珈琲が飲みたいなあと思ってしまえば確実に珈琲を飲むことはできるが、代わりに宇宙のどこかで惑星が消滅している。

 そんな偶然性偶発因子を内包したものが搭載されている宇宙船が着陸した第8アースはたくさんあるアースでも酷いところの一つだった。まるで生成過程において惑星醸造炉にタバスコを一瓶落としてしまったかのように年中真夏日である。更に胡乱な知識で少しでも涼しくなるようにと水気を多く設定したのか、じめじめとした日が凄く多い。
 この惑星で生き延びる方法はクーラーをガンガンに効かせた酒場で酒を呷って現実を忘れる事であるが、全ての場所でクーラーをガンガンに効かせているせいで気温もガンガン上がっている。

 いつも通りじめじめとして蒸し暑い日に、冷房が効いた騒々しい酒場で酒をバカになるほど呑んで来たある一人の男が酔っ払って自分の家と間違って宇宙船に乗り込んだ。男が乗り込んできた際、偶然にも宇宙船には誰一人居らず、警備システムは自動メンテナンスのために機能を落とされていた。男は千鳥足で船の動力室まで行き、その隅っこにガラスケースに入れられている林檎を見つけた。その林檎は赤々として瑞々しく、見てるだけで涎が出てきそうな代物だった。
 男はガラスケースを放りすてて中の林檎を取り出し食べ、「うまい」と呟いたあとそのままぶっ倒れてしまった。
 やがて戻ってきた乗員によって男が発見され、しかも今まで誰も触る事のできなかった偶然性偶発因子を持った林檎を男が食べたらしいということを知ると、乗員は大喜びで男を脱出ポットに詰めてそのまま船外に射出した。乗員が大喜びした理由は偶然性偶発因子と相容れない感情にあった。それは罪悪感である。自分の考えた事が実現する代償に失われるものを考えるとおちおち妄想もできない。このままでは何も考えられないバカになるか、何も考えられないバカになる機械を偶然性偶発因子によって出させるかの二択になりそうなところだったのだ。
 ところで船外に射出された男だが、この男は毎日浴びるように酒を飲んでいたので既に酒のこと以外あまり深く考えないバカになっていた。男は眠りながら酒を飲むことを考えていたため、体内の偶然性偶発因子がなんだか酒が呑めそうだぞ、という方向に男の眠る脱出ポッドを導いていった。

434

「え……復習?」
 自分にかけられた言葉があまりにも予想外でケッフェルは思わず聞き返した。
「違う! 復讐だ!」
「ああ、なるほど、復讐ね」ケッフェルは納得したように頷いた。「復讐!?」
 男はケッフェルをじっと睨んでいる。
「あぁ、ええと、その」ケッフェルは極力申し訳なさそうな顔を作った。「忘れ」
「忘れたとは言わさんぞ!」
 ケッフェルは男が内容を話し出すと思って少し待ったが何も言わないので仕方なく口を開く。
「いやでも」
「お前が!」
 ケッフェルは男が続きを話すと思って少し待ったが何も言わないので嫌々口を開く。
「多分人違」
「俺の姉さんを!」
「……なんて名前?」
「セイジアだ!」
 ケッフェルは首を傾げる。やはり聞いたことがない。
 そして十分に考えて知らないと言おうとしたところで男が待っていたかのように口を開く。
「姉の名はサイルシアだ」
「なるほど」
 さっきのは男の名前だったらしい。だがケッフェルはどっちでもよかった。サイルシアも聞いたことがない。
「思い出しただろう」
 聞いたこともない、とケッフェルは答えかけたが素直に答えたところでそうですかと引き下がりはしないだろうと話をあわせ始める。
「えーと、ああ、何て言ったっけ、そうだ、サイルシア。その人を俺が……えーと」
「夕方のセールで!」
「そうそう、夕方のセールで……何のセールだったかな」
「パン屋の」
「そう、パン屋の夕方のセールだったかな。それから……」
 セイジアは怪訝な顔をして言う。
「プロレスをしながら」
「うん、そうだそうだ確かパン屋の夕方のセールでプロレスを」ケッフェルは急に言葉を切って自分の言葉を反芻する。「……本当にそんなことしたのか?」
「お前覚えてないな?」
「うん」
「そんなことだろうと思ったよ」
 セイジアは激昂もせず、さほど失望した様子もない。
「何でだ?」
「どうもアンタじゃない気がしてきたんだ」
「おいおい、一体どう言う風の吹き回しだ!? 俺じゃなけりゃ誰がやったんだ!」
 ケッフェルはセイジアが人違いだったと気づき始めたと知ると、自分が犯人だと主張し始めた。よくあることだが、手段と目的が逆転している。
「それもそうか。よし、それならお前に……」
「判った。落ち着けよ」ケッフェルは両手を挙げて抵抗しないという意思を見せた。「よく考えたら俺じゃない」
「じゃあ誰だ」
「それを探すんだろ、アンタが。俺も協力してやりたいが、申し訳ないが力になれないと思う」
「何故だ?」
「事態をかき回すのは好きだし得意なんだが、解決するのは嫌いってわけじゃないが全然駄目なんだ」
「あんた最低だ」
 ケッフェルはそんなことを言われる筋合いはないぞ、とちらりと考えたがそんなことはおくびにも出さない。
「別にいいけどさ、もう行っていいか?」
「何処に行くんだ?」
「パーティだよ。招待されてるんだ」
「俺も行っていいか」
「いや、だめ……」と言いかけて、ケッフェルはこいつは使えるかもしれないぞと考え直した。自分は酒を飲みたいだけなのだが、パーティというものには酒を飲みたいだけじゃなくて話をしたいだけの者も来る。そんな人にあった場合にこの男を代わりにおけば自分は酒が飲めるんじゃないか?
「いや、いいぞ。こいよ」
 ケッフェルは実にいい事を考え付いたと満足の面持ちでセイジアを一緒に連れて行くことにした。

 実はそのパーティにこそセイジアが復讐したい相手がおり、セイジアはそのパーティに潜入するもっとも簡単な方法の一つとしてケッフェルに絡んだのであるが、その復讐はケッフェルが酒を呑めるだけ呑んで酒瓶を抱えて眠っている間に起き、終わったので結局ケッフェルが知ることはなかった。

433

 本家だの分家だのと言った果てしなく続く泥沼の諍いに、本家の一人娘であり次期当主である彼女は疲れきっていた。毅然と振舞わなければならない。それだけを教えられ、そう言う教育を受けてきた。
 疲弊しきっている彼女を見かねてか、彼女の父親は使用人からの意見を容れ、彼女に専属の使用人を着ける事にした。プロではなく、さほどの心得を持たぬ者を。下手をすれば余計な負担が増えるというリスクもあったが、彼女が世話を焼く事によって少なくとも普段の雑事からは気を逸らせると言う、要は仕事疲れを仕事で癒すかのような酷い荒業であった。
 その結果選ばれたのは彼女の家の争いに巻き込まれ、多額の借金を抱え込んだ分家の一つで、失踪した両親に代わり身柄を拘束した子供だった。本家がその子供を借金のカタに引き取り、彼女に呉れてやった。
 彼女は戸惑いつつも喜んだ。自分にも「友達」ができたのだと思った。彼女は彼をできるだけ長く傍に置くために身の回りの世話をさせようとした。理由もなく置いておくには不自然すぎたからである。もっとも、それこそが両親の狙いであったのだが。
 だが誤算があってそれは彼には厳しすぎたのだ。周囲からは彼女には言えないことをぶつけるかのように冷たい目で見られ、蔑まれ、彼女からは我侭と厳しい水準での仕事の達成を求められた。

 彼の精神は磨り減っていった。自分の家を潰した本家でいいようにこき使われるという屈辱も彼には少なからずあった。プライドと言う唯一自分に残された無形の塊を少しづつ削り取って己を保っていたが、やがてそれもなくなり、彼は分岐に直面した。
 彼には選択肢が二つあったのだが、彼は本家にも主にも良い感情を持てなかった為により悪い選択肢を採択した。彼はこう思ったのだ。
 俺は彼女が我侭を言うための受け皿なのか、と。受け止めなければならない。受け止めきらなくてはならない。それこそ己を殺してでも。
 彼の心はそれに気づいたときひび割れ、仮面の笑顔を貼り付けて、己を異常なくらいに律して己を持たなくなった。
 彼女がそんな彼の変化に気づいた時には手遅れだった。彼は表面上は何も変わらない。だがその実は空っぽなのだ。彼女が何を言ったとしても受け入れて優しい微笑みを浮かべるが、彼自身には届かない。彼の心の何をも揺さぶらない。
 ただ彼女の真意に気づいていれば、或いは頼ってくれていると捉えていれば違っていたかもしれないというのに。

432

 バンハイム・ビルギン・ソーンダイクの朝は遅い。だがここで注意せねばならないのはバンハイムが住まうプラ星系第七惑星は一日が51時間あるということだ。地球人の感覚で午後二時に起きても、この惑星の基準からすれば十四時間睡眠というのは特に目を引くような事でもない。昼寝時間を抜いても活動時間は三十時間以上あるからだ。
 ちなみにバンハイム・ビルギン・ソーンダイク以外の朝はどうなのかというと、その疑問は全く無駄である事を記しておく必要がある。何故ならプラ星系第七惑星にはソーンダイク姓以外の人が居ない。全員がナントカ・地名・ソーンダイクである。そしてソーンダイク姓の者は大体そんな生活だった。

 それはそうとバンハイム・ビルギン・ソーンダイクは顔芸の達人であった。できる顔芸は一種類で、それもうさんくさそうな顔のみである。だがバンハイムのうさんくさそうな顔は全てが本当にうさんくさく思えるので様々な場所からバンハイムの凄くうさんくさそうな顔として恐れられていた。
 例を挙げるならばこんなものがある。バンハイムがとある辺境のちっぽけな惑星を訪れた際、そこにあった美術館に行って目玉商品の絵画の前で顔芸を披露したところ、その絵画には様々な鑑定家からの証明書がずらずらあったにも関わらず再鑑定を余儀なくされた。更にその辺境のちっぽけな惑星の住人はバンハイムのうさんくさそうな顔を初めて見たので、再鑑定で本物と認定されたにも関わらず疑惑が晴れずなんのかんので贋物ということになって美術館に置かれなくなった。
 そこで一番驚いたのは画家だった。まだ存命していて、自分が描いたと言っているのに贋物扱いされて作品が美術館に置いてもらえなくなったのだ。ただこの画家は賢かったので、後でバンハイムに会って親交を深めた後、酒をしこたま飲ませてうさんくさそうな顔を作らせそれを絵に描いて大儲けした。
 ちなみにバンハイムのうさんくさそうな顔が大いにウケて、画家の孫娘と結婚までしてしまったがそれはどうでもいいことである。

431

「腹黒系魔法少女リリト参上ー! ……ってぎゃー!?」
 真っ昼間から侘しい腹を満たすために俺が茶漬けをかっ込んでいるところに、貞子よろしくテレビからおもむろに生えてきたそいつは俺の前で仁王立ちになると噴飯ものの台詞を吐いた。
「いきなり何するんですかっ! 折角のかわいい顔が台無しじゃないですか! ほらタオルタオル!」
 どうやら俺は本当に噴飯していたらしい。悪いのは俺ばかりではないと思うのだが、俺は急かされる様にして偉そうな小娘にタオルを渡し、事態を傍観した。外を歩いているのを見つけたら思わず目を逸らしてしまいかねないファンシーな衣装を着ているが、こいつには羞恥心とかそういった類のものは存在しないのだろうか。青とピンクのひらひら衣装はテレビを通さないと見ていて恥ずかしい。
「信じられないですよヒトが自己紹介してるのにいきなり人の顔に全くもう……」
「そうか、悪いな……でも特に何もいらないから帰ってくれ。ホントに」
 俺は心からの本音を吐いた。
「え?」
 リリトは本当にそうだったのかは定かでないが聞こえなかったようで、耳だけをこちらに傾ける。
「帰ってくれ」
「そ、そんな……。いくらこんな不思議系美少女がいきなり訪れたからって取り乱して帰れだなんて……。あとで嗚呼何でボクはあの時あんなことを言ってしまったのだろうもし引き止めていればいずれあんなことやこぉーんなことが待ち構えていたかもしれないのにヨヨヨ、だなんて自分を責めるのは目に見えてます! そんなに自分を責めるのは止めてください! まだ間に合いますよ!」
「帰れ」
「ああっ!? 風当たりが一層強く!? まぁいいや……それよりアナタは今好きな人が居ますね!」
 このままでは埒が明かないと思っていよいよ何か商談に入ったのか、と俺は露骨に顔をしかめる。だがリリトは全く気にした様子はない。
「何の話だよ……いない。いないから帰れ」
「またまたご冗談を。いないなら作ってください! 設定ですととりあえず誰かとくっつけなきゃならんみてーで。全くあたしは天使じゃないっつーの! って話ですよね」
 リリトはそう言いながら古臭いノートに目を通していた。
「なんだその設定とか言うのは」
 俺が問うと、リリトは意外そうな顔で俺を見た。
「これですよこれ」
「んー?」
 そう言ってリリトが向けてきたノートにはエラい汚い字がのたくっていた。俺は目を細めてそこに記された情報を読み取ろうとする。
 えーと……、魔法少女リリト、魔法の国から……読めないな、魔法の国からついほう? されて人間界に。魔法の国へ戻るためカップル成立を目指す……と。何じゃこりゃ。
 そう思いながら下のほうへ読み進めるにつれて、今後の展開的なものが記されており、それを読んでいる内に俺は物凄い悪寒に襲われた。ノートに記されていた今後の展開。それは思い返すもおぞましく、思い描くのもまたありえない。
「貸せっ」
「ああ! ちょっと!」
 俺はリリトからノートを奪って他のページをめくってみる。あ、あ、あ、これは……これも……、
 ってこれ俺の黒歴史ノートじゃねぇか!
「てめぇこんなものどっから持ち出しやがった! 捨てたはずだぞ一昨年の大掃除の時に!」
「持ち出したって失礼な……。ちゃんと上司から渡されて任務としてきてるんですからねこれでも」
 貴様の上司は俺の母親か、と突っ込みそうになる。万一肯定でもされたらコトなので聞かなかった。
「結果捏造していいから帰ってくれ。このノートを置いて」
「そんなことしたら怒られるじゃないですか。怒られるのはともかく給料差っぴかれるのはこっちも痛いんですからね!」
 リリトは存在の割に妙に現実的だった。俺はどうにか何事も無かった事にする手立てはないかと思案をめぐらせる。
「魔法」
「え?」
「魔法少女、とか言ったな。じゃあ魔法を一つ使ってみろ」
 魔法少女なんぞ言葉にしただけで恥ずかしいものがあるが、ここは証明のために耐えて言ってみせた。
「いいですよ」と、リリトはあっさり承諾する。
 あれ、とこの時点で予想と違っていたのだが、リリトは「では魔法で中に入るのでドアの鍵を閉めてください」と言って自ら外に出た。俺は遠慮なく鍵とチェーンをかける。
 さてお茶漬けの残りでも食うか……。そう思ってすっかりふやけた米を無表情でかきこんでいると、
「ア・ナ・タ」
 耳元で囁かれ再び噴き出した。
「うわわわわわっ!?」
「え、なんですかその驚きよう」
「な……どうやって入った!?」
「ですから魔法ですよ。マジカルピッキングです」
 リリトはそういって両手に何かを摘んで手先の何かをいじる仕草をした。……チェーンはどうしたんだろう。
「マジカル言えばいいってもんじゃねぇんだぞ。じゃあとりあえず警察に……」
「な! やれって言われたから仕方なくやったのに……。別に私だって勝手に他人の家に侵入したりはしませんよ多分」
 リリトは白々しくもオーバーリアクションで驚くような仕草をしてみせる。
「お前ここ誰の家だと思ってるんだ。てめぇと俺は赤の他人だろうが」
「仕事先です。だから早いトコラブラブになって私が冷やかせるようになってください」
「だから」
 そんなものは居ないし、そんな予定もないから帰ってくれと言いかけたところでリリトが吐いた言葉に硬直する。
「大体、片思いだった幼馴染の子はどうしたんですか」
「……待て、何で貴様そんなことを知っている」
 俺が答え次第ではただでは返さんと言う態で詰め寄ると、リリトははっとしたように慌てた様子で答える。
「い、いえ! その、情報の一つとして上司から聞かせてもらいまして!」
 本当にこいつの上司って俺の母親だったりしないだろうな。そんな疑惑を抱きつつため息をつく。
「別に社とは何ともなってねえよ。最近は会ってもない」
 と、俺が言い捨てるとリリトは逆に笑顔になった。
「おやおやまだ未練がありそうなご様子で」
「ねえって」
 俺はわざと無愛想に言い捨てる。社のことはどちらかと言えば苦い思い出として残っている。
 社とは確かに幼馴染だ。一つ上で、いっつも俺の姉貴のように振舞っていた。俺は多分、好きだったのだと思う。少なくとも俺が中学生の時までは好きだった。好きだったが、中学にあがっても相変わらず姉貴風を吹かせて俺を子供扱いするのが気恥ずかしくて、俺が敬遠するようになり段々疎遠になっていった。それは高校の時も変わらない。高校の時も一度か二度一緒に帰ったくらいで、その時すら殆ど会話することはなかった。ただその時は社も俺に興味がなくなっていたのか、姉貴ぶることはなかった。そしてそれ以来俺と社の関係(と言うほどのものでもないが)は完全に過去のものとなり、今では昔親しかったご近所さんくらいの感覚ではないかと思う。大学にあがった現在、大学は社と奇遇にも同じところらしかったが俺は社がどこの学部かも、そしてどこに住んでいるのかも知らなかった。案外実家からということもありうるが。
「まだ取り戻せます!」
 俺が回想に耽っていると、急にリリトが立ち上がって言った。
「…………は?」
 と、しか俺は答えようがない。一体何がどういう展開を経た上で「まだ取り戻せる」などと言うのか。俺の回想でも見たのか。
「なぁにその社さんもきっと貴方の事が好きなはずです。ほら気になるアイツって言う奴ですよ!」
「いやだから」
 会ってもいないのだというのにこいつは全く聞いていないらしい。
「とりあえず会いに行きましょうよ」
「……無駄だ」
 学部も所在も知らぬと言うのに、どうやって、またどんな顔で会えと言うのか。今更会ったところで、気まずいだけだ。
「無駄ではない事は私が保証しますよ!」
「あのなぁ、人の事にあんまり首を突っ込むもんじゃねぇよ。俺だって忘れたいくらいの過去なんだから、社にしたっていい迷惑だ。第三者がクビを突っ込んでいい問題を悪い問題ってもんが……」
 このままでは埒があかんと俺が少し真顔で説教をし始めると、突如リリトは真面目な顔になり、俺の目をじっと覗きこんで一言こう言った。
「本当に、そう思ってますか?」
「ああ」
 嘘だった。自分でもそんな事判っている。俺は、本当は、少しだけ期待した。「今」の社とまた話してみたいと、そう思った。そしてそれに気付いた直後に、社の方は迷惑がるかもしれないと自分の浅ましさを恥じたのだ。考えすぎかもしれないということは判っている。古い知り合いにあって懐かしい気持ちに浸るくらい大した事では無いだろう。だが、俺は美化された記憶に現実の上塗りがなされることを心のどこかで恐れているのだと思う。
 リリトは俺を無言で見つめている。若干、口を尖らせて。コイツは俺の本心に気付いたのだろうか?
「もし、社さんが再びあなたに会うことを密かに期待していると聞いても、同じですか?」
「……!」
 リリトは憎らしくもこの時は口調も目も真剣そのものだった。
 だが、今更ほいほいと意見を変えられるほど、俺も人間できていないのだ。
「変わらねえよ」
 リリトはその言葉を受けて一瞬だけ泣きそうな顔になった。俺がその表情をみていて浮かんだ質問を口にしようとするより先に、リリトが再び口を開く。
「二度と会えなくなるかもしれませんよ」
 その口調はまたしてもふざけてると言った調子ではなく、冷酷なくらい真剣だった。だが、いくら本心からの言葉であろうとも、俺には聞きすごせないものがあった。
「どういうことだ」
 リリトはじっと俺の目を見返して口を開くがすぐに閉じ、大きく息を吸うと最初のテンションに戻って言う。
「ですから! 一度会ってみましょうって! 過去との決別、過去の清算……名目はなんだっていいんです。地獄の沙汰も金次第って言うでしょう? やらずに腐るなんてもったいなさすぎますよ!」
 突如出てきた、文脈に何の関係もない慣用句はなんなのかとも思ったが、どうやら先の穏やかではない言葉の説明はないらしい。ハッタリかもしれなかったが、それにしては洒落にならない。だがそれが俺と社が今再び会う事によって潰せる選択であるのなら、別に会ったっていいじゃないか。俺は己の頑なな心を懐柔する。
「仕方ねえな。判ったよ」
 結局、俺は安心したような笑顔を浮かべるリリトに期待半分、不安半分で付き合うことにした。

430

 この世のものとは思えない安っぽい音のバイクが近づいてくる。この音を喫茶店店長渋沢義一は知っていた。バイクの持ち主は女は判らないという言葉以上に判らない女で、その安っぽい音のバイクはヒッチハイクに飽きた際に買い叩いたらしい。
 バイクの外見は音に反してハーレーに並ぶかというほどの豪胆さがある。ただ音と合わさって生まれる不協和音はただごとではなく、思わず見惚れる様な外観であるというのにエンジンをかけた瞬間その外観は鉄くずで飾り立てたベニヤ板を適当に貼り付けたのでなければ、悪質な詐欺にあっているに違いないということを確信させるほどだ。

 安っぽい音のバイクはこの世の終わりのような音を立てて喫茶店の傍で停車し、まもなくして喫茶店に客が現れる。
「コーヒーを頼む」
 一人の女だった。寝巻きなのか、寝巻きじゃないのかどちらとも言い難い服を着ていたが、髪の毛はぼさぼさである。
「はい」店長は笑顔で反応する。
「とびきり安っぽい入れ方をしてくれ。上品臭いのは合わん」
「無理です」店長は笑顔で答える。
「じゃあこっちが金を貰わなきゃ付き合いきれんコーヒーを」
「ありません」店長は笑顔で言う。
 女は鼻を鳴らしてカウンター席についた。女も別に何か期待しているわけではない。安っぽいコーヒーが好きなのは間違いなかったが、この喫茶店ではコーヒーはコーヒーであってそれ以上も以下もない。うまくもまずくもないくせに、店の雰囲気と他の品物のおかげで上品っぽく見えるここのコーヒーを女はあまり好きではない。人間の住まう地ではないと言われる自分の家ならばさぞかしうまいのだろうと女は思う。
「コーヒーです」
 いかにも上品そうなカップに注がれたコーヒーが女の前に置かれる。
「どうも」
 女はコーヒーを見たが手はつけずに本を取り出して読み始めた。文庫のようなかわいいものではない。古文書のようなボロさのハードカバーである。言語も日本語ではなく、装丁も古いながらに堅苦しくて面白そうな要素が微塵もない。
 店長はそれを見たが何も言わずに仕事を続ける。判らない事を判らないままにしておく。それが渋沢義一にとっての信条だった。日常的な部分では理解がなければやっていけないこともあるので判らない事があれば一度は聞く。だがその上で判りそうになければそのままにしておく。ちなみに、判りそうになくても判ろうとする奴は大概学者という生物になる。そして目の前に居る菊沢という生物は確か学者といった。彼は菊沢のようになれるとは思わなかったし、何度人生をやり直しても菊沢のようになりたいとは思わないだろう。
 彼が目の前の女の名前を知っているのは、たまに友人ときて名前を呼ばれているからであった。ちなみにコーヒーを安っぽく入れてくれという注文は今日で37回目である。

 菊沢は今、ガイアガガンガ族という既に居なくなったアジアのあまり有名でない種族の研究をしている。
 ガイアガガンガ族についての研究は芳しくない。それとなく触れていそうな文献をことごとく漁って発掘できたのは以下のたった二行だけだった。

 隠者は静かに暮らしたかった。
 光も音も、言葉すら届かぬ果てで静かに。

 しかもこの言葉を三世紀以上前に死んだ小説家も何度か使っていた。しかも引用という形で。菊沢はそこにこそ重要な答えがあると踏んでそれの参考文献を探したが、半分以上が既に存在しないものだった。

 実はガイアガガンガという言葉は地球の地表より内側、一般に地球の裏と呼ばれるような場所に住む種族の言葉で迷い人という意味であったのだが、地球の地表、或いは地球の表に住まうニルバサダンナである菊沢には到底判る事ではなかったし、判る資料もなかった。
 菊沢は難しそうな顔で首をひねっている。

429

 機械の帝国グラナンドはもとは滅んだ王国の一都市であった。奴隷階級であった地底人のクーデターによって王家が滅んだのをきっかけに独立。皇帝を立てて帝国となった。
 グラナンドは大陸でも類を見ないほど体に悪そうな国である。きっと精神にも悪い。概観はすす汚れているし、建築物も綺麗な状態のものが一つもないので旅行者には全く好まれない。訪れるのは民俗学者か物好きくらいである。物を売っている店は不自然なくらい強く合法で安全を謳っているが、合法の割には警吏がきたら驚嘆するほどの早さで店を閉じるし、安全の割には物が売れた数日後には店がなくなっている。
 食べ物に関してもひどいものだ。八割は何かに汚染されたとしか思えない味と色合いの食べ物で、二割はそもそも食べ物と思えない。一見普通で少しでも美味しそうだな、と思えるようなものがあればまず何か変なものが入っている。旅行者はここでは携帯食料以外を口にするべきではない。
 グラナンドの大きな特徴は軍備が異様に整っている事だ。どんな頭に花が咲いた平和主義者でも戦争するのかな、としか思えない。だがそれを指摘するものは居ないし、居たとしても二日後には行方不明になっている。
 実は殆ど誰も知らないが、グラナンド軍は一度本格的な侵攻を始めようとしたことがある。その際に極秘で開発していたヤバいくらい危険な大量殺戮兵器を持ち出そうとしたのだが、一人の何も知らない旅人が持参のなんだかよく判らない機械を組み立てるためにヤバいくらい危険な大量殺戮兵器から勝手に部品を持ち出したので大変な事になり、侵攻は延期になった。(ヤバいくらい危険な大量殺戮兵器はヤバいくらい危険であることを隠すためになんだかよく判らない外見だった)
 だがグラナンドは機械に関しての知識が進んでいるので、気の利いた義手や義足などを作れる事でも有名である。ただしグラナンド人の「気の利いた」は腕に砲弾を仕込ませたり義足に催涙ガス噴射装置を組み入れることだったりするので、あくまで注文どおりにやってもらいたい、と念を押さなければいけない。

「……で、ここが目的地か」男が呟いた。
「そうよ」隣の少女が答える。
 この二人組はグラナンドの人間ではなく、民俗学者でもない。つまり物好きの旅人であった。
「何しに来たんだ?」
「ロボットが欲しいな、と思って」
「へぇ」男はどうでもよさそうだった。「そうか」
 グラナンドにはろくなロボットが居ない事を男は知っている。グラナンドのような陰鬱な都市に居ればロボットだって陰鬱になるし、仮に明るくても即座に叩き壊される。とはいえ黙らせておけば優秀である事には変わりない。絶望の定義とグラナンドの歴史の話さえさせなければ、時折死人のような目で見てくるくらいで淡々と仕事をこなしてくれる。ただ絶望の定義とグラナンドの歴史の話しかしないロボットが旅の仲間に相応しいかと言えば、悩むところである。
「一緒に来る?」
「遠慮しとくよ。適当にぶらついてみる」
「そう。じゃあ、夜に宿で」
「ああ」
 そうして男と少女は別行動をとり始めた。男は自覚はなかったが、よく問題を起こす。以前グラナンドを訪れた際も己がこつこつ造っていたなんだかよく判らない機械を組み立てる為に、グラナンドにあった大きいなんだかよく判らない機械から勝手に部品を持ち出したために、グラナンド軍部がこっそりと大騒ぎになった。
 そして今回も夜になって宿に戻るまでの数時間に、男は二件の問題と三件の問題になりそうな事を抱えて帰ったのだが、男は一つとして気づいていなかった。
 ちなみに少女はロボットを見に行ったものの、絶望の定義を散々聞かされて物凄く重い足取りで帰ってきた。

428

 惑星エルデラでもっとも名誉ある賞はもっとも歌声が綺麗な者に送られる賞で、「歌声が綺麗で賞」だった。馴染み深くないとふざけた名前のように思えるが、エルデラの最高権力者である元老院長でさえもこれの受賞者には一目置くほどである。
 この「歌声が綺麗で賞」は今期で十七回目だが、そのうちの十五回は同じ人物が受賞している。その人物はマールロイド・レクショーネンと言った。一回目から八回目、十回目から十六回目までの賞を取っている。九回目の「歌声が綺麗で賞」はちょうどモグラ穴掘りレース最速決定戦と日が重なっていたので欠場した。マールロイドはモグラ穴掘りレースの熱狂的ファンだったのだ。これを受けてモグラ穴掘りレースは「歌声が綺麗で賞」とは開催日をずらさなければならないということが議会で決定された。
 十七回目の「歌声が綺麗で賞」も当然のようにマールロイド・レクショーネンの受賞が決定した。おそらく宇宙全土を探してもマールロイドほどの澄んだ歌声の持ち主はいないだろうというのがエルデラ人の自慢だった。マールロイドの歌声は実に澄んでいて、あまりに澄んでいるので誰も歌声が聴こえないほどである。
 エルデラ人が聴こえもしないマールロイドの歌声が澄んでいると思うのには二つの理由があった。一つはマールロイドが美人であるということであり、一つは地声が汚いということである。エルデラでもっとも名誉あるコンテストに出場するくらいなのだから、いくら地声がダク(エルデラの一般的家畜)が慌てて逃げ出すほどで、花も見る見る枯れてしまうほど汚いとしても歌声は意外なくらいに綺麗なのだろうという思い込みがエルデラ人にはあった。
 マールロイドが本当に歌っているのか実は口パクなのか判る者は一人しかいなかったが、その真実を知る者は今回も素敵な笑顔を振りまいて十七回目の「歌声が綺麗で賞」を受賞している。

427

 鬱蒼とした森の中に一人の男が仰向けで倒れている。ケッフェルという男で、何やらきらきらした物が一杯に詰まった布袋を後生大事に掴んでいる。
「7だ」
 突如倒れているケッフェルの傍に現れた男は言った。
「は?」
 ケッフェルは不機嫌そうなのを強調して答える。別に強調しなくてもケッフェルは不機嫌だった。なぜならたった今、金がなくなったので金品を掠め取りに忍び込んだ盗賊の根城から脱出したはいいが、予定とは違ってバレた上に足を踏み外して斜面を転げ落ちたばかりだったからである。まだ起き上がってすらいない。ケッフェルは答えてから、倒れっぱなしじゃ威厳がないなと思い全身が痛かったが我慢して立ち上がった。
「何の話だ?」
「お前にとって7は実に忌まわしい数字だ」
「ああそう」
 ケッフェルはどうでもよさそうに言った。実際どうでもよかったし、それより盗賊が追ってくることを心配していた。金庫から出てきたところをばっちり見つかったのだ。
「なにせ」男は言った。「お前は7回も記憶を消されるか改竄されるかしている」
「……誰だお前」
 ケッフェルは少しだけ男に興味を持ったようだった。男は何処にでも居る様な服装で、何処にでもいるような中年で、それなりに見栄えのする口ひげを生やしていた。見覚えはない。そう結論を下すとケッフェルは男から視線をはずす。
「私は昔お前に会っている」
「へえ?」ケッフェルは余裕ある笑みを浮かべて見せたが、斜面の上にある盗賊の根城が明らかに騒がしくなってきていたので気が気ではなかった。
「そりゃあ俺もいろんなとこに行くからな。すれ違う事もあるかもしれない。もしかして酒奢ってくれたりした奴か?」
「いや違う」
「そっか、じゃあどうでもいいや。もう行っていいか?」
 ケッフェルは見るからにそわそわしていた。そんなケッフェルを見て、男も上の騒ぎに気がついたようだった。
「行ってもいいが一刻も早く記憶を取り戻せ」
「おいおい、記憶を失くしたって記憶がないんだぜ。まあ精々努力するよ」
 ケッフェルは言うなり駆け出した。もたもたしすぎた。時計を見ると脱出間際に確認してから七分も経っている。
「おい、本当に……」
 ケッフェルの背後で男が何か言いかけるが、それはケッフェルを追ってきた盗賊の声にかき消される。
 盗賊(偶然にも追手は七人だった)はケッフェルと話していた男にはまるで気がついていない様子だった。男はケッフェルが見えなくなると、一歩も動かず空間に溶け込むようにして消えた。

426

「助かったぞ」
 耳がある位置より少し上から小さな角が生えている少女は言った。耳がある位置より少し上から小さな角が生えている少女は年のころ12、3くらいで和服を身につけ、静という名前を持っている。
「うん」ヒロトは答えた。まだ追いかけてくる人間が居ないか警戒している。
「だが何故助けた?」
「何でって……うーん」
 ヒロトは警戒するのに精一杯であまりその問いを考える事に思考を割いていなかった。だが静が返答を待っているのに気づくと真面目に考え始める。
「ほら、昔遊んだじゃん」ヒロトは答えた。
 理由としてはこれで十分だろうとヒロトは思う。昔、引っ越してきたばかりで誰も友達が居らず、暇つぶしに山へ入り込んでうろついていると、今とほとんど代わらぬ姿の静と出会って少し遊んだ後に送り返してもらったのだ。よく考えると、いやよく考えなくても別に大したことをして遊んだわけではないのだが、それでもヒロトは静が思っている以上に嬉しい記憶としてその思い出を大事に抱えていた。
「そうか」
 静はそれが危険を冒してまで助ける理由としては不十分であると思っていたが、譲歩した。
「これからどうしようか」
「別れよう。私は同胞をたずねてみようと思う。あまり期待できるものでもないが」
「もう会えないのかな」ヒロトはそっけなく言ったが名残惜しさが滲み出ていた。
「また会ったところで今日みたいな事になるだけだ」静は突き放すように言う。
「そうかな……」ヒロトは寂しそうに呟いた。
「……なら私はいずれ戻ってこよう。お前の元に」
「本当に? 約束だよ」
「ああ」
 と、静は答えてそれきり黙っていて、ヒロトはこれから静が逃げるための経路を考えつつ警戒していたので、静が何をしているかということには全く気がつかなかった。だが突如聞こえた妙に生々しい音に驚いて振り向く。
「何をして……っ!?」ヒロトは言葉を呑んだ。
 静は己の片目を抉り出していた。尖った爪のある白く綺麗な手で抉り出した眼球を持っている。顔、首、着物と血だらけになっていた。猫のような細い瞳孔を持つ目が静の顔と手にある。
「約束の徴だ。受け取れ」
 ヒロトは顔を引きつらせて無言で首を横に振る。静は痛がっている様子もなく、平気そうな顔をしていた。ヒロトは痛くないのだろうかとか何をしているのかとか考えたが、急に蔓延した血の匂いが一層恐怖を煽り立てた。
 静はヒロトが黙って受け取ると思っていたので不思議そうな顔をする。
「そ、その目をどうしろって言うのさ!」ヒロトは声を潜ませながら叫ぶ。
「お前たちはよく物をなくすからな。なくされると困る。食え」
 ヒロトは絶句した。
「お前が食う事によって私の一部はお前のものとなり、私はそれを頼りにお前を見つけることができる」
 静の言葉にヒロトは納得する。だが仮に自分の目を静に与えたところで静の居場所がわかるとは思えない。ヒロトは恐る恐る静の眼球を受け取った。
 凄惨な状態になった静が一心にヒロトを見ている。
「な、なくさないからさ……」
 どうしても食べたくないヒロトは弱気に言う。静は今までの仮面を崩して少ししょんぼりしたような表情を見せた。
「なら食わなくてもいい」
 そんなに食べて欲しかったのかとヒロトは恐る恐るといった態で、摘んでいる静の眼球を見る。少し弾力のある感触が実に生々しい。
 だがこれで静とまた会えるというのなら、大事に持っておこうとヒロトは思った。何重にも封をして、間違っても目に触れないよう引き出しの奥にでも押し込んでおこうと真面目に考えている。
 静はそんなヒロトを少しだけ微笑ましそうに片目で見ていた。

425

 人食い島、と言うのは誰がどういった理由に基づいてつけたのかは定かでない。
 だが太古の地図の時点で既にそう記されている。故に人食い島に住まう者どもは人間たちから非常に恐れられ、決して近づいてはならぬ島とされていた。
 彼らも人の住まう大陸に寄り付くことはなかったが、人が知る限りでは一度だけ姿を見せている。
 ただその目的は島が冠する名の通り食料を探しに来たのではなく、人が住み着くより前に居た先住種族に対する警句のようなものであった。
 人食い島に住まう者を見た男が覚えている限りで、一番初めに言った言葉で一番強く残っている言葉がこれだった。
「種族の誇りを忘れたか、ユーウォーキー?」
 場所は、ユーウォーキーの里である岩山の山腹から少し離れた麓であった。ユーウォーキーは数百程度が集まって高所に暮らす翼を持った知的種族のことである。有翼人種と呼んでも良い。体力は若干人に劣り、その翼も滑空のために使われることが主で、羽ばたくことにはあまり使われない。そしてある一人のユーウォーキーが人と恋に落ち、集落から少し離れたところで共に暮らしていたのだ。人食い島に住まう者は、そこに現れた。
「いきなり現れたと思えば何を言うんじゃ」
 若い女のユーウォーキーは人食い島に住まう者を恐れるでもなく返す。
「知り合いなのか」と、男が声を潜めて彼女に問うと、
「いや。全く知らんがろくな奴じゃなかろ」
 若きユーウォーキーはあっけらかんと答えた。
 若きユーウォーキーの名はイェルテと言った。人の子である男の名はシャーロ。人食い島に住まう者はみな名を持たぬらしい。
「判らぬから聞きに来た。誇り高き種族のユーウォーキーが何故人間と番うのだ?」
 イェルテはそれを聞くと過剰なくらいに表情を歪めた。
「誇り高き? 今アンタはそう言ったのか?」そして自分の耳を疑うとばかりの仕草をした後、
「それはわしらが決めることであって、見ず知らずのアンタに言われることじゃあない。そりゃあわしらは誇り高いとも。だがそれは別に血統によるもんじゃない」
「寿命が五十年程度の人間と、寿命が四十年程度のユーウォーキーなら釣り合うとでも思ったのか」
 シャーロが見た限り、人食い島に住まう者は既にイェルテを責めるでもなく、ただ純粋な好奇心から聞いているように見えた。
「釣り合う? そんな事貴様に言われとうないわっ!」
 だが既に怒りを覚えているイェルテにとって、人食い島に住まう者の言葉は挑発の類にしか聞こえぬらしい。シャーロは自分が応対すべきか、と考えた。
「お互いに」シャーロが口を挟むと、イェルテにとっても人食い島に住まう者にとっても一様に黙り、シャーロを見た。
「心があって、意思疎通ができた。この前提がある以上ありうる事だと思います」
「黙れ人間」
「はい」
 人食い島に住まう者はシャーロが喋るのが気に入らないらしく、威嚇するように言った。シャーロは怖かったので素直に黙る。だが、それがイェルテを一層刺激したようだった。
「貴様とは話しても無駄なようじゃ。疾く帰れ」
 人食い島に住まう者はイェルテが何故そんなにも怒るのか理解できない様子だったが、イェルテの目を見てこれ以上話は聞けないと踏んだらしく、踵を返す。
「せいぜいうまくやるんだな」
「言われずともやる」
 イェルテはその言葉通りにならないわけがないと信じきっている表情で言った。
 人食い島に住まう者は数歩歩くと血の様に紅く、薄っぺらい翼を出してそのまま飛び去った。
「ふぅ……」
 シャーロが気が抜けたとばかりにため息をつく。
「大丈夫か?」
「うん。別に何もされなかったからね。それより君のことだから蹴って追い返しやしないかとヒヤヒヤしてた」
 シャーロが冗談交じりに言うと、イェルテはむっとしたように少し頬を膨らませてこらえる。
「わしも女の子じゃけぇ、そんくらいの分別はある」
 シャーロにはイェルテがそんな事を言うなんて少し意外だった。実際何度も相手を蹴って追い返すところを目の当たりにしていたからである。
 イェルテはいじけたように足元を蹴り、シャーロの顔を覗き見る。
「おかしいか?」
「い、いや、そんなまさか」
 シャーロは乾いた愛想笑いを浮かべながら答えるが、イェルテはさすがにそのとってつけたような答えで本心がわかったらしく、ますますむくれたような顔つきになる。
「お前はヤな奴だ」
「ごめんよ」
 シャーロは謝りながらイェルテの羽を梳く。
「ふん」
 イェルテは口調こそ怒っているものの、嬉しそうなニヤつきを隠し切れておらず、自分の手で口元を隠していた。

 人食い島に住まう者はこの一度だけ姿を見せたが、以降は人の前に現れることなく、またシャーロの話が伝播して誇張解釈されていくうちに人食い島に住まう者は人間を見るなり襲い掛かるという恐怖の対象となって語り継がれていったのだった。

424

 どこの酔狂モンが作ったのかは知らねぇが、ハートチケットちうもんがある。
 チケットつっても紙じゃねえ。鉄でできたハートを半分に割った、小物みたいなもんだ。
 一組の男女がそれを持っていて、それが一つになった時には奇跡が起こる……とか言うのが名目で、実際のところはハートチケットを合わせれば死に掛けている誰かに生命力を流し込むことができるという反則的な代物だ。ただしあんまり知られちゃいないが、代償としてハートチケットを持たない方が流し込まれる生命力のカタになる。
 そして俺みたいな魂を扱う輩に一番納得いかないのが、互いにハートチケットを持って組み合わせれば死人は出ず、しかも二人は安全な終生を迎えることが出来るらしい。まったくふざけた冗談もあったものだと思う。
 俺は今、一組のハートチケットの行方を監視している。
 病気の姉を助けたい一心で方法を模索していますという、涙ぐましい努力をする妹に舞い降りた悪……いや、天使ってわけだ。
 そして貧乏くじを引いた男の方だが、正直な話俺はなんとかこいつを幸せにしてやりたい。本当はこんなひいきは駄目だし、俺もここまで一方的なひいきなんて滅多にするもんじゃないんだが……。俺は昔から仕事感情より自分の意思を優先するタイプだったもんで、色々怒られていたがその度に世話になった男がこの度めでたく生まれ変わり、ハートチケットを持つ片割れとしてよりによって俺の前に現れたのだ。昔からこの件では散々怒られたが、今回も俺は自分の意思を介入させてしまうというわけだ。
「ちょっと」
 ハートチケットの片割れを持つ女が俺を呼んだ。名前は聞いたが、覚えてない。俺がハートチケットのことを話すとすぐさま男の方へ行ったが、戻ってきたらしい。
「貰ってきたけど」
 と、その女がまるで軽いおつかいにでも行ってきたかのような調子でハートチケットを持っていたから、俺は思わず首をかしげた。
「ありゃ? ……まさか奪ってきたとか盗んできたとかじゃないだろうな?」
「オトメを何だと思ってるのよ。ちゃんと事情を説明して貰ってきたわ」
「そうかい。そいつぁ悪かったな」
 ということは、あの男は本当に生を放棄したと言うことだ。
 あの男は俺の上司だった時、確固たる意思をもったなかなか格好いいじじいだったんだが、どうも人間になってから無気力化しちまったらしい。何もかもどうでもよさそうで、見てるこっちがケツを蹴ってやりたいくらいだった。
 残念だね。俺は非常に腹立たしい。悪魔とも死神とも呼ばれる職の俺が言う事じゃないが、あの男は馬鹿だ。
 ……しかしこの女が奴さんからハートチケットを得てきたことには相違ない。
 できる限り男の方を幸せにしたかったが、生きる意志がないんじゃ手助けのしようがない。あの男の魂を持って帰るなんてことは出来れば俺はやりたくなかったんだけどなぁ。
「でもこんなもので本当にお姉ちゃんが助かるの……?」
 女はちっぽけなシルバーアクセサリーのようなハートチケットを見て首を傾げる。
「オーケーオーケー。あんたの姉さんはこれで助かるよおめでとう。じゃあ奴さんの死に乾杯、と」
 俺が早速チケットを組み合わせてもらおうとすると、女はハートチケットを後ろ手に持って隠し、戸惑ったように声をあげた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「あん? なんだよ」
「死って……どういうこと?」
「だからそう言う事だよ。あんたの姉さんの元気の代わりに奴さんが死ぬ。それだけ」
「そ、そんなこと聞いてないわ!」
「あー? そうだっけ? でもまぁ奴さんは知ってるだろうから別に構わないんじゃないの」
「で、でもさ、それって……私が殺したようなもんじゃない!」
「そりゃそうだ。でもまぁ、バレやしねぇよ」
 大して親しくもない奴が死んだところで何も困ることはないだろうに、女はひどく動揺したようだった。唖然としている女に俺はやさぁしく後押しをしてやる。
「あんたの姉さんもそこそこヤバいんだろ? 変に偽善ぶってないでさっさと合わせちまえよ。簡単だろ?」
「……なんで?」
「ん?」
「何でアイツは自分が死ぬって知っててこれを私にくれたのよ?」
「知らねぇよ」
 むしろ俺が知りたい。でも多分、俺が聞いたらぶん殴らずにはいられないだろうから、知らなくていい。
 女は手に持った一組のハートチケットを見て唸り、踵を返した。
「なんだ、突き返すのか?」
「……納得がいかない」
 女はそれだけ答えて走り去った。
「ふぅん」
 俺は女を見送って、少し嬉しくなった。どうやらまだチャンスは完全に失われたわけじゃないらしい。
 頼むから、多少は足掻いてくれよと届かぬ声で思う。
「…………」
 男がかつて使っていた名前を俺は呟いた。
 とにかく問題が絶えなかった俺だが、今もこうしてこの仕事を続けているのはあの男が上司だったからに他ならない。沢山怒られたし、殴られた。だが同じくらい褒められたし、感謝された。じじいも己が出来ない、言わば人道的でも言うべき行動を俺に期待していたのだ。だからこそじじいはずっと俺を庇ってきた。多分。
 ……ああ、どうやら本当にあの男に対してだけは感傷的になりすぎる、と俺は自分をあざ笑いながら思った。

423

 器物猫、というのが居る。別段置物であるとか猫として見なされず虐待されているとかそういった話ではない。
 一般に、機械の心臓を持った猫のことを指している。誰が作ったのかは知らないが、機械の心臓を首からぶら下げていたり首輪についていたりと一目でわかる。心臓と言っても人目にはそれとは判らないだろう。ひし形のクリスタルにそれを保護するような装飾がついたものだ。
 そのクリスタルは猫にとって第二の心臓であり、人にとってルールの保管する入れ物となっている。
 誰かが定めたルールは、その人の元を訪うナビゲータが持つクリスタルに記録される。もしそのルールを破りたければ制定者が居なくなるのを待つか、制定者を抹消するか、クリスタルを破壊すれば良い。しかしナビゲータは大概独自の防衛術を身につけているため、無策にクリスタル破壊を挑むのは賢い選択ではない。
 となると待つことが耐えられない場合、制定者を抹消することが一番の近道なのだが、そこで脅威となるのがどんな非力なものでも超人足りえる「ルール」なのだ。
 新しく一人の男がその世界へと招かれた。
 男は始まりの部屋と呼ばれる白い家から外に出ると、まず辺りを見渡す。
 一面草原の中心にその家があり、前後左右に砂利道が伸びていてその先に街があるのが見える。ただ、街? と疑問符をつけたくなるようなものもあった。二つは街だと言えるが、一つは街と呼ぶにはあまりにも原始的過ぎ、一つは幾何学的過ぎる建造物が遠目に見えて男が理解できるレベルを超えていた。
 男は自然一番見慣れている建物が並ぶ街に足を運ぼうとする。
「ぎにゃあっ」
 と、突如なんとも言えない悲鳴をあげて男の頭の上に猫が振ってきた。
「うわっ!?」
 男は驚いて頭の上に落ちてきた何かを慌てて振り払う。
 猫は振り払われても地面に落ちる前に体勢を直して華麗に着地した。
 男は一度空を見上げて何もないことを確認し、改めて猫を見る。首輪にクリスタルがついている器物猫であったが、男はそんなことは知らず一体どこから落ちてきたのかという疑問の答えを探るかのように何度も空を中心に辺りを見渡していた。
 猫も猫で戸惑ったように男を見つめ、辺りを見渡す。その間も警戒しているのか尾が伸びきっていた。
「なるほどです」
 猫は男のすぐ側にある草原の中心にある白い家を見つけると合点がいったとばかりに声をあげた。
「いい!?」
 男は猫が喋ったことに驚いて距離をとろうとする。
「あ、あー、ちょっと待って欲しいですのね」
「うわわ……」
「私がナビゲータですのね」
「ナ、ナビゲータ」
 男はその言葉を反芻し、その意味することが判って来ると逃げようとするのをやめる。そして多少なり落ち着くと今度は猫を観察し始める。猫は首輪にクリスタルが付いているほかはそこらに居る猫と変わったところがない。
「私もまさか仕事の際に呼び出されるとは聞かされていたけど、こんな呼ばれ方をするとは思ってもみなかったですのね」
「な、なぁ、一つ聞いてもいいだろうか」
「はいですの」
 男が恐る恐ると言った態で問うと、猫は状況を受け入れてもらえたことが嬉しかったのか弾んだ声で返事をする。
「その……鬱陶しい語尾はなんとかならないのか?」
「ははは、初対面なのにそんな殺意の沸く表現で質問されたのは初めてですにゃあ。これはルールで決められてますのね。ヒト以外はルールの適用から大きく外れて自由な部分が多い代わりに、こういうしょうもないルールがあるんですの」
「そうなのか。なら仕方ないか……。で、聞きたい事はたくさんあるんだが、とりあえず俺はこれからどうすればいいんだ?」
「アナタは当選者ですので、住居が割り振られてますの。まずはそこに向かいますのね」
「出来るなら帰りたいんだけど」
「無理ですにゃ」
 だろうなぁ、と男は呟きながらとぼとぼと歩き出す。
「まぁまぁ、幸い時代も一致してますし、慣れれば中々楽しいですのね」
 猫は励ますように言うが、男がうんと頷くにはまだ少し不安要素が大きすぎた。
 猫は男のそんな内心を察したのかさらに言葉を重ねる。
「あまり心配しなくてもいいですの。死ぬことはないですのね」
 男は最初に仮面をつけた人間に聞いたルール制定者の抹消云々の事柄を覚えていたので、猫の言葉が気休め程度にしか思えない。猫の語尾も相変わらず鬱陶しかった。
「まだルールとか言うのを作ってないからだろ?」
「ん! それは間違いですにゃ。空のクリスタルはルールの入れ物ですので壊すよりは空のものを手に入れるほうが望ましいですのね。判りやすく言うと、空のクリスタルによって己で制定できるルールを増やせますのね」
「それじゃあ……」
 男は言いかけて猫を見る。自分は無事でもお前が危険な状態なのか、と。口には出さなかったが目でそれを言う。猫は不思議そうに男を見返し、すぐに合点がいったようで誇らしげにヒゲを振るわせた。
「心配されなくても私はやられませんのね」
 男が疑わしげに納得すると、猫は「それに」と付け加える。
「アナタがルールを制定しても私が守るので心配いりませんのね」
 その言葉に根拠があろうともなかろうとも、男はちょっとグッときた。
「……ありがとうよ」
 男が擦れる程度の声で言うと、猫は人語ではなく己の言葉で一鳴きすることで答えた。

422

 物事には、ルールが必要だ。
 特にゲームなどでは明文化されていなくとも、参加者が暗黙のうちに遵守すべきルールがある。それを破ればゲームが成立しなくなる危険すら沸いてくるからだ。
 男は上記の「ルールの必要性」を叩き込まれた上で、白い部屋で椅子に座っていた。十畳ほどの広さで、窓が一つ、扉が一つ。中央に男が座っている椅子がある他は物の類は見当たらない。
 男は気が付いた時にはそこに居た。前後の記憶が曖昧になっているようで、その前は何かしていたような気がするが思い出せない。男が場所を確認しようと立ち上がると壁の一面が歪み、奇妙な仮面を被った誰かが映し出された。どうやらその面の壁はモニターになっているらしい。仮面をつけた誰かは顔のドアップで、変声機を使っているため性別の判断さえ付かない。
『ようこそ。君は幸か不幸か参加資格を引き当てたらしい。少なくとも二週間から一ヶ月の間はこの世界で過ごしてもらわなければならない。外の世界はまだ新しく、肝心な部分以外はルールらしいルールがない。まず教えることは二つ。超能的な力が叶うこと、今居る部屋には危害を加えることは禁止されていることだ。
 そしてここからが本題だが君は外で一つだけルールを作っていい。その内容は何でもいい。判りやすく言うと、願い事だな。大金でも常人をしのぐ特別な力でもいいし、誰も自分を傷つけてはならないなどの防衛的なものでも結構。しかしそれはルールとしての形を取る必要がある。大金なら「自分が対価として差し出すものは通貨として機能する」。能力であれば効力や発動場所といった制限を決め、防衛的なものなら私が先に言った様に指定場所を不可侵にするなどだ。
 その場合は君が現実に戻る際に効力を失う。ただ、社会全体に影響を及ぼすルールならばそれは残されるだろう。だが気をつけたまえ。それがあまりにも偏りのあるものだと君を抹消することによって『制定者死亡によるルール解除』を試みる輩が出てこないとも限らない。
 こちらから話すことは以上だ。では君という人間の痕跡を刻んできてくれたまえ!』
 仮面の人物は一方的に話して勝手に話を打ち切った。しかし男も聞きたいことが山ほどあった。場所、参加資格というものについて、拒否権の有無、ルールやこの状況についても聞きたいことがある。
 男はいきり立って仮面の人物に向けて何か言おうとしたが、先に仮面の人物が口を開いた。
『……そうそう、聞いてなかったり疑問がある場合は後にナビゲータをやるのでそれに聞いてくれ』
 と、それを言い終わると今度こそ本当にモニターはただの白い壁に戻ってしまった。
 男は壁に向かって声をあらげて悪態をつくが、再び壁が切り替わることはなかった。

421

 五文字の高次元生命がふと休息に立ち寄った惑星にて、その惑星に命が育ち始めていることを発見した。高次元生命は新たなる未知の命の芽生えを心から喜び、調査を目的として、また彼らに有意義であるようにと去る前に置き土産を残した。
「願いを、叶えよう!」
 それが始まりの言葉だった。
 その星に残された、不思議な箱。三十センチ四方の箱で各面に五センチほどの厚みがあり、真ん中にくり抜いたかのように大きく口を開けている一面がある。滑らかな手触りながらも何物をも受け付けないような頑強さを持っている。箱の中を覗いて見ると両脇と上下の面の中心に小さな黒円があるだけだ。そしてその箱は「会話」する。上面と思しき部分に赤いラインで描かれた円があり、そこから奇妙な生物のホログラムが起こり、上の台詞を吐くのだ。そのホログラムは少なくとも箱がある星の生物を模した物ではない。落書きのような顔と手をとりつけた白い涙形を逆さにして、緑のシルクハットを乗せたようなふざけた形をしていた。
 知的生命が数えた暦で言う八百年頃その箱は発見され、歴史は加速した。その箱こそが神のように扱われ、その箱を所有する家こそが全世界の統治者であるように扱われた。ただ、箱には制約があった。叶えてくれる願いは一人一つ。一生に一度のお願いである。そして願いはその箱の大きさを超えるものであってはならない。例え人様に誇れるような駿馬が欲しいと願ってもホログラムの生物が全身を使って駄目だと言うからだ。
 概念的なものならばそれなりに叶えてくれるが、許容ラインが存在するらしい。過去の例を引いてみよう。ある家庭の妻が遺産目的で「夫を死なせて欲しい」と願ったらそれは叶った。しかし、ある奴隷階級の男が支配階級にある者どもを皆殺しにするよう願っても、それは容れられなかった。もっと概念的な例だと、不老不死を望んだ資産家の女性は不老は叶えられたが不死は叶えられず、人より二百年ばかり長生きして死んだ。またある軍人は世界征服を願ったがその望みは拒絶された。
 箱の歴史は発見から三百と二十年ほどで終わった。ある男は己を装飾する力を願った。男の望みは叶えられ、力を得た男は今まであらゆる攻撃をも受け付けなかった箱を破壊して、逃亡した。箱を壊した男は世界から憎まれ追われる立場となって今現在も逃げ続けている。

420

「ばかっ」
 帰ってきたミユはぼくの顔を見るなりまずそう言ってぼくのあたまを軽く叩いた。
「……!?」
 当然のことながら、ぼくは何が何だか判らない。久しぶりに見たミユの姿にかんどうしていたのもあるだろう。
 ああ、だが今にして思えばあの時の彼女がその行動に出た理由もよくわかる。
 確かに彼女にしてみれば、ぼくほどどん感で馬鹿で世話のやける弟分もいなかったであろうから。

 天田美由は神隠しにあった。
 昔の話とはいえ、仮にも現代においてはその言葉が非現実極まることであったのは僕も承知している。だが本人があの澄ました顔でそうだと言うのだからしょうがなかった。大人が誰一人信じないのだ、せめて僕くらいは信用するとしよう、とそう思ったのだ。それに何故か僕が少しでも疑いの声をあげると彼女は僕にだけは怒りを見せた。だが判りやすい怒り方ではなく……そう、言うならば拗ねたとでも言うべき怒り方だ。
 その期間は長いのか短いのか、一月という期間であった。まだ小学生という幼さだった僕からすれば美由が消えた一月は永遠に等しい長さだった。大げさであることは判っているが、当時の僕にしてみれば一日が全てであり、「明日」は「今日」の後に続くものではなく、切り離されて独立した未来だったのだ。
 美由は、僕にとってただの幼馴染と言うにはその存在は大きすぎた。中学、高校と勉強だけはそこそこできた僕は、勉強だけはどうにもできなかった美由に勉強を教えていたが、その他のことは美由に尻を蹴られっぱなしであった。
 こんな僕だったから、大学受験で美由は滑り止めまで全部落ちて、僕が第一志望の所に通った時も他人事のようにああ、僕は駄目になるんだろうなと予測できた。結構離れたところで一人暮らしというのも堪えていたのかもしれない。
 実際大学に入って半年と少しほど経ち、冬に突入しようかと言う頃に早速僕は駄目になっていた。学校には行くが授業には出ず、図書館や学生食堂で日が暮れるまで時間を潰すことが多くなっていたのだ。それでも単位のために頃合を見計らって欠席で単位を落とさない程度には出席していた。皮肉なことに、それでも授業にはついていけていた。どうやら僕はその辺りの要領がいいらしい。
 大学が冬季休講に入ると僕は何日かに一度食料を買えるだけ買い込んでは家に篭もり、呆けたり眠り続けたりと無為な日々を過ごしていた。
 そしてそんな時である。一人の来訪者があった。
 僕はいつも通り居留守をするつもりでいたが、ドアノブを捻って無理やり入ってこようとしたり、ドアをドンドン叩き鳴らしたりとその日の来訪者は随分荒っぽかった。碌なものじゃない、と思って僕は別に眠る気もなかったがベッドに潜り込んでやり過ごそうとした。
「こら! ゆうさく君! 開けなさい!」
「!?」
 聞き覚えのある声が絶対的な強制力を持って僕を呼んだ。僕はその声が誰であったか、などと考える間もなく飛び起きてドアに駆け寄っていた。反射神経に強く刻み込まれている声が、躊躇うことを許さなかったのだ。
 いざドアを開けてみれば、そこに居たのは知らない……いや、知ってはいるが今の僕と会うはずがない小さな女の子だった。
「美、由……?」
 美由は力強く頷いた。ただ僕と同じ年齢であるはずの美由は、昔の姿だった。
 幼い美由は何故か口を尖らせて、いつもの怒っているんだぞと言わんばかりの表情で僕を見たあと、口を開いた。
「ここ、ゆうさく君のおうち?」
「そ、そうだけど」
「じゃあちょっとどいて」
 美由は怒った表情を崩さずに、僕を押しのけて部屋に上がりこむ。
 美由は仁王立ちで部屋の中を一望すると大きなため息をつく。
「けっこうきれいね……うん、まあ二じゅう丸くらいはあげてもいいかな」
「ありがとう。……でも、美由、何故君がここに?」
 僕の真っ当な質問に、美由はまたもむっとしたようで僕を睨んだ。
「こっちがききたいわよ! ちょぉーーっと親切心をだせばすぐこういうへんなことになるんだからまったく……」
 一体何があったのかと僕は十年前の美由を刺激しないよう、恐る恐る尋ねてみるとその概要はおおよそ「道端で蹲っている人を見つけて声をかけたら「代わりに使いに行って欲しい」と言われ、渋々承諾したところ結果としてここに付いた」ということらしい。
 美由がその人に渡されたというメモを見ると、ノートの切れ端に僕のこの家の住所と名前が記されている。手書きだったが字は見覚えのないものだ。
 美由は歩いてきたと言うが、実家からほいほい歩いてこれる距離ではない。だが美由はその辺り特に疑問に思わなかったらしい。
 本当の美由はどこに行ったのか確認する必要があるし、美由を帰してやらなきゃならない。多分一月以内で僕は方法を見つけるのだろう。ただ問題は、その間美由をどうするかだ。どうも堕落した大学生が小学生の女児と居るとなると穏やかな想像をしてくれる人は殆ど居ないだろう。
 だがそれ以上に、美由を突き放すわけにはいかなかった。多少辛い思いをしたとしても、僕は美由を守らなければいけない。
「なぁ、美由」
「何?」
 美由は僕も小学生の頃一緒に居た時と全く変わらず、我が物顔で傍らに漫画を積んで読んでいた。
「なんで美由がここに来たのかは正直よく判らないけど、やっぱり帰らなきゃいけないと思うんだ。美由と同じ年齢の僕が居る場所に」
「うん」
「だから、悪いんだけどそれまではここに居て欲しいんだ」
 美由はそこで僕をまっすぐに見つめてきた。
「……どうしてもというならなんとかするよ。僕が外に居ればいいだけだし、」
「いいよ」
「最近は外で過ごしても家より快適なくら……え?」
 美由はまったく、と呟くと漫画を置いて立ち上がり、僕に指を向けた。
「ゆうさく君! 大きくなって少しはかっこうよくなったかと思えば外見ばかりでぜんぜんだし、あいかわらず言うことが弱っちいし、君は何を学んだの! 女の子で、しかもおさななじみの子が困ってたらオレにまかせろ! くらいのことは言うのっ!!」
「ははは……。君は変わらないな」
「こっちのセリフよ!」
 それから美由は世話が焼けるだのいつまでたってもだの文句を垂れながら漫画を読んでいたが、暫くすると規則正しい呼吸が聞こえてきた。眠ってしまっている。何だかんだで疲れていたのだろうか。
 僕は美由に布団をかけてやり、眠る美由の顔を見て思う。今、本来の美由はどうしているのだろう。元気でやっているのだろうか。入れ替わりで居なくなってたりするのだろうか。
「……電話してみよう」
 決意が逃げないように、言葉にして携帯電話を手に取る。最後に手に取ったのはいつだったか、充電がきれているようで充電器を刺して起動し、電話帳を探す。思えば美由と話すのも随分と久しぶりだ。美由は何か変わっているだろうか。忙しい時期だろうし迷惑がるかもしれない。
 それでも、やっぱりやめたと携帯電話を置くことは出来なかった。僕は旧知の相手にかけるというのに酷い緊張と不安、そして幾ばくかの期待を込めて通話ボタンを押した。

419

「……おい、この機械は何だ」
「私もこの人外の気を発する方がどなたなのか伺いたく存じます」
 その様は滑稽ですらあった。前時代の象徴的なシャーマンであるアンコントルと、新時代の象徴と呼べるロボットであるアヴェルス。その一人と一体が怪訝な顔をして互いを見ているのだ。だが無理もないかもしれない。一人はこの辺りにはいない赤褐色の肌で、さらにもっといないだろうと思われる全身の模様。一体は顔こそ女性のものではあるものの、ところどころはまだ機械がむき出しのままだ。
 その一人と一体は当然のように彼に説明を求める。
 アンコントルにはアヴェルスのことを自分が開発に携わったロボットだと、アヴェルスにはアンコントルを自分の兄妹のような存在だと彼は説明した。
 アヴェルスは無表情のまま「そうですか」と呟くと、ちゃんと皮膚まである方の右手を差し出す。
「握手を……おっと」
 アヴェルスはわざとらしく言うと、出していた手を引っ込めて機械がむき出しになっている左手を差し出した。アンコントルは意図が判らないという風にアヴェルスの顔を見る。
「お父様の、妹分だそうで」
 アヴェルスが殊更に「お父様」というのを強調して言うと、アンコントルも意図が判ったのか薄ら笑いを浮かべて頷いた。
「まぁ、その通りだ。否定はしない。君は美しき兄妹の間に割り込んできた娘というところか」
「そうですね」
 アンコントルとアヴェルスは無表情に近い状態でにらみ合いながら、握手を交わす。
 彼は困ったように指先で頭を抑えた。出自と人種のせいで友達と呼べるような者が居なかったアンコントルのために、忙しい自分に代わる話相手を連れてきたつもりだったが、見事に険悪な雰囲気になっている。そしてその原因というのが自分だというのは喜ぶべきなのか、と彼は泣きたい気持ちで思う。
 アンコントルはその性格上、もし相手が気に食わなくてもそれが余り表に出ない。元の性格からしてぶっきらぼうなのでもしそう思っていても判らないだけなのだが。アンコントルは自分がおそらく最後の一人であるだろうことを知っている。自分が死ねば永遠に同じ人種が世に出ることはないのだ。それゆえかアンコントルを世話して、衣食住の面倒を見る彼にそれ以上の手間をかけさせることを非常に避けており、彼は彼でアンコントルはストレスなどを溜め込む性格なのだと見て何かと気にかける、という皮肉のような図式が出来上がっている。
 アヴェルスはまだ生まれて間もない。正式起動はつい数時間前のことなのだ。故に知識を実体験として経験している中で、その中でも最重要人物である彼に付き従ってみれば、そこには知識にすらない違う人種の娘が大きな顔で居るのだ。しかも彼にとっての大切な人物ということで。
 感情制御は従来より抑えられているので、感情のゆらぎは大きなものとなる。彼はアヴェルスを驚かそうという子供じみた心から黙っていたのだが、アヴェルスがそういう考えに到るには少しばかり経験が足りなかった。深慮の前に出てきたのはより単純な感情である淡い嫉妬。彼の間違いを指摘するならば、アヴェルスはあらゆる点でまだ子供だと言うことを理解していなかったことだ。感情制御を抑えるということは、負の感情など簡単に転がり出るということなのだ。
 愚かにもこれを目の当たりにしてなお理解しない彼は、ただアヴェルスとアンコントルに暫く同じ家で暮らさなければならないのだ、ということをどう切り出そうかひたすら悩んでいるのだった。

418

 広い荒野に戦争の傷跡が延々と残っている。ちょうど機械兵大隊同士がぶつかった場所らしく、巨大な鉄くず廃棄場と言うべき様相を呈していた。
 機械兵の残骸の中から、一機の左足がひん曲がった兵の目が赤く点滅している。とはいえ、片目だけである。左目には石片が突き刺さり、目を破壊していた。
 その兵は階級章からこの地区の指令クラスだったことがわかる。何機かの鉄くずとなった兵が折り重なるように上に乗っていた。守られたのか、吹き飛ばされて結果このようになったのかは今となっては誰にもわからない。
 幾たびかの点滅の後、機械兵の目が確と灯った。

 ……再起動。警告アラームをオフ。外殻損傷69%。五感センサーオン。味覚センサー、異常なし。聴覚センサー、20%低下。嗅覚センサー、破損。触覚センサー、17%低下。視覚センサー、70%低下。
 左眼窩に石片を確認。現装備での修復不可能。
 現時刻は一七三○。最後に本営に通信を行ってから三日と二時間二分が経過しています。
 状況確認。サテライトアイに接続。
 周囲に自軍損害を確認。照会します。
 ……照会完了。全滅を確認。本営に状況報告を送信します。
 送信中。……送信エラー。本営はこの状況報告を受理できません。
 想定外。本営に異常事態発生の可能性。信号なし。サテライトアイに接続。本営位置まで移動します。
 移動中。……移動完了。サーチします。
 本営、壊滅。損害を確認。照会します。……照会不可。高濃度の残留ジャミングを確認。照会信号を読み取れません。生体反応を探索します。……生体反応なし。
 現思考タイプでは当該状況におけるこれ以上の進展は不可能と判断。思考タイプを切り替えます。
 当該状況は想定内。敵陣営による何らかの新兵器投入の可能性。
 味方陣営も同様の処置をとった可能性。サテライトアイを予想される敵本営位置へ移動。
 ……該当箇所は壊滅。味方陣営も開発中であった新兵器を完成、或いは未完成の状態で投入したと判断。高濃度の残留ジャミングを感知。生体反応なし。
 サテライトアイ移動中の探索による戦火、生体反応はともになし。
 当該惑星における生態系根絶の可能性。サテライトアイを生態系探索のため巡回にまわします。
 目標を敵兵力の殲滅から生体系存続の為の援助に切り替え。惑星中枢管理部に命令変更の要請を送信。応答なし。現時点を持って当機体は独立個体として稼動します。
 左脚部被弾箇所の損害重大。歩行不可能。当戦場に投入された同系機AK73型による代替可能。左脚部流用可能なAK73型の探索。……17機が該当。
 これより左脚部の換装及び軽被弾箇所の修復を実行。後に残る三機のサテライトアイへの接続を試みます。


 彼が生体反応を見つける56時間と12分後まで、暫し物語は停滞する。

417

「二名様でよろしかったでしょうか?」
「おいちょっと待て」
「は、はい?」
「よろしかったとは何だ。日本語がおかしいだろう。正しく言い直せ」
「は、はい失礼致しました。お客様は現在二名様でご来店なさいましたが、後ほどお連れ様が来ることもありうるかもしれません。あるいはお客様にしか見えない小人さんがそこの胸ポケットからちょこんと顔を覗かせて自分も頭数に入れてくれという顔をしておられるのかもしれません。しかしこの場合現時点でお見えになっているお客様は二名様ということで、そのようにご案内させていただきたく存じます。よろしかったでしょうか?」
「よろしくない」

416

 女性の死体があった。頭を撃ち抜かれている。
 服は布切れとなって散乱していた。何か呪い的な模様が刻まれた褐色の肌に痣らしきものが多くある。ぼくは思わず暴行の内容まで想像してしまいかけて慌てて目を逸らす。
 ぼくは暫く目を逸らして辺りの惨状を眺めていたが、その間に誰かがどこかから持ち出してきた布を彼女に被せたらしい。幾人かが彼女の周りに屈んで黙祷をしている。ぼくも少しの間彼女に黙祷を捧げ、離れた。
 何気なく近くにあった家屋に入ってみるとやはり中も酷く荒らされた跡があった。まるで台風が通り過ぎたかのようにめちゃくちゃで、まともなものは何一つとして残っていないように思える。酷い場所に至っては柱まで折れているという有様だ。どういう恨みを持てばこうも無益に暴れまわることが出来るのだろう。
 しかしこれも始めてではないのだ。でも最後かもしれない。不幸の中に希望を求めてぼくたちは歩いている。
「あー」
 小さく聞こえた声に、ぼくは振り返る。荒らされたものに埋もれるようにして赤ちゃんがいた。何かを求めるかのように手を伸ばしている。その手の先を目で追ってみると、折れた柱に引っかかっているタオルだった。ぼくはそれを取って赤ちゃんに渡す。
 よく見ると、この赤ちゃんも褐色の肌でここが薄暗いせいで見えにくいが先ほど見た呪い的な模様がある。……やはり、先ほどの女性の子供なのだろうか。どうにも暗い気持ちになる。
「おい、そろそろ……」
 と、仲間の一人がぼくを呼びに来るとタオルを手にして落ち着いていた態であった赤ちゃんが喚くように泣き始めた。
 その泣き声を聞いて次々と人が集まり始める。赤ちゃんの肌と模様、でもそれ以前にここに居たと言う事から生き残りと言うことが知れ、俄かに騒ぎになっていく。
 しかし赤ちゃんが一向に泣き止まないために一端皆は席を外し、長と二人で向かいあってぼくは事情を説明した。赤ちゃんは泣きつかれて眠り始めたものの、ぼくの服をしわになるくらい強く掴んでいる。どうも、赤ちゃんは何故かぼくに懐いたらしい。となると連れて行くなら成り行き的にぼくが面倒を見ることになる。
 赤子をどうするのか。長との話はそれだったが、見殺しにするわけにもいかないために、やはりぼくが面倒を見ることになった。


 彼女はそんな経緯だったためか、表面上は判りにくいがそこそこ大きくなってもぼく以外には結構な距離を置いているようだった。根底にあるのは敵意ともとれるが、多分、怯えだろう。ぼくが彼女にその心の壁の例外とされているのは最初に彼女とあったが故に刷り込みがなされてしまったためだろうか。仮にそうだったとしても赤子だった彼女が生き延びるための知恵であろうから、どうこう言うつもりはない。
 彼女はその呪い的な模様から察せられるとおり、生まれついてのシャーマンだったらしい。誰に教えられるわけでもなく、天気や災害などを予知する。朝だろうと昼だろうと夜だろうとすることがなければ外で何時間でも何をするでもなくその身を大地の風に浸している。人を嫌う以上、辿り着く答えがそこなのかもしれなかった。
「白人は嫌いだ」
 ある日彼女は言った。おぼろげながらも、赤ちゃんだった時の記憶があるのかもしれない。だが実際目の当たりにせずとも彼女は大多数の白人にとって厄災の根源とされてしまっていたのだからそれは当然なことだった。でも遠まわしにぼくに言っている様でもあり、なんとも反応に困ってしまう。
「そう」
「……お前は好きだよ」
 答えたぼくの声が惨めにでも思えたのか、彼女は微笑むようにして言う。
「そうかい」
 彼女はそれの証明だとばかりにぼくに身を預けてくる。他の人に対してはまず見ることはない行為だ。
 この不器用な生き方をする彼女には、幸せになって欲しいとぼくはその日心から願った。

415

「こしいたい」
「え、どうしたの急に。大丈夫?」
「うん。別に大したことないから。それよりもこれってつい似たような言葉と間違えたりしない?」
「え……つい間違えるほど言わないし……。でも似たような言葉って?」
「こいしたい」
「どうしたのさ急に。大丈夫?」
「何で反応が一緒なのかな」

414

 失恋を前提とする恋は胸が痛くなる。
 でも、判っていたところで止められる……というものでもないのだ、こればかりは。
 僕は言うなら天使見習い、とでも言うところだ。ヒトが恋人になる兆候を調べて報告する。故に僕もヒトの中に身をおく必要があり、ユミコという人間の身体の中に間借りして兆候を調べている。
 その兆候というものはユミコがヒトを好きになる事。しかしそのヒトはユミコの恋人になることは決してない。たとえどんなにユミコが告白や積極的なアプローチをしたとしても。ユミコは自分の好きだったヒトに恋人が出来ても表面上変わらぬように振舞うが、その失望感や凄く心が重くなる感じは僕にもよく伝わる。多分、僕もそんな気持ちなのだ。
 ユミコほど多くのヒトを好きになり、挫折した人間を他に知らない。誰かを好きになり、そのヒトの良い所をたくさん知っても、他の誰かに連れられてゆく。ヒトを好きになる事で、気持ちは弾む。だけど、同時にああまたかと失望する気持ちも先立って沸き起こるのだ。
 それでも、ユミコはまた誰かに恋をする。ただひたすらに真っ直ぐな、叶わぬ恋。
 僕はそんなユミコをずっと見守っている。ユミコは自分の身体に自分の心以外の何かが潜んでいるなどとは考えもしていないだろう。だから密やかな僕の恋も、実らない。

413

(ああ、腹減ったなあ)
 そうは思えど、何も食べることは出来ない。彼は椅子に揺られながら夜空を眺める。
 下からは賑やかな団欒の声が聞こえてくる。
(まあ仕方ないかな)
 彼はある特殊な鉱石でしか腹を満たすことが出来ない体質だがその鉱石の需要が世間で減ったらしく近隣では手に入らなくなり、咄嗟の判断で買いだめをしたはいいがそれが止めとなったか最早国内では見ることもなくなってしまった。
 彼が最後に食事をしたのが三ヶ月前。以来水だけで細々と生き続けている。
 彼は人の形をしているがやはり作りが違うらしく、水だけだというのに空腹は変わらないものの死ぬ様子はない。
 彼には肉だの野菜だのを食べてもまるっきり美味しいとは思えなかった。彼の感じるまずさを率直に伝えることは味覚が違う以上不可能だろう。そこらの石や鉱石も同じで、多分これは普通の人が石や鉱石をかじるのと同じに違いない。兎に角彼にとってはその鉱石こそが唯一の食料なのだ。
「兄さん、大丈夫?」
 彼の部屋のドアを妹が叩く。
「一応、持ってきたけど……」
 彼がドアを開けると、妹が今日の食事だろう、いくつかの料理を盆の上に乗せていた。二つづつあるところからも彼女はここで食べるつもりらしかった。彼には兄弟が七人ほどいたが、彼をここまで気にかけるのは親とこの三女の妹だけだ。彼女が赤子の頃からずっと面倒を見ていたから、彼女にとっても彼は捨て置けない存在なのだろう。
「うーん、悪いけどいらないなあ」
 彼は困った笑顔を浮かべて言う。
「そう」彼女はただ頷くと、「テーブル、借りるわね」
 と言って盆を置く。
 彼女はそうして時折その日の話などを挟みながらも黙々と食べる。おそらく、彼女が食べるのを見て彼がちょっと食べようなどと気が変わるのを期待しているのだろうが、その目論見は巧くいっていない。彼女は自分たちが普段食べるものでさえ、彼には非常にまずそうに見えるということまでは知らなかったからである。
 彼女は時折無言で彼をのぞき見る。彼は微笑みを浮かべて食事をする妹の方を見ていたり、無感情に外を眺めていたりと様々だったが、彼女が彼を見る目には口に出すのも馬鹿馬鹿しいくらい心配そうな想いが込められている。
「あの、兄さん」
 妹が言いづらそうに口を開く。
「うん?」
「あの話、本当なの? 兄さんが一人で外国に引っ越すって話……」
「ああ……」そういえば、そうだった。まだ形として出来ていないが、そういう話は出ているのだったと彼は思い出す。
 実際、国内に無いというのなら外国の鉱山近くに住めば食には困るまいという話だ。鉱山近隣ではその鉱石が殆ど使い道もないためにわざわざ金を出さなくても手に入るというくらいなので、それならば国内で探すよりも実際そちらに行ったほうが早いのではないかという話になったのだ。
 まだそんなに形になっている話ではなかったが、彼は悪い話ではないと思っているし、無駄に家族に心配をかけるのも悪いと思っている。
「そうだな、いずれ……近いうちにはそうしようかなと思っている」
「……一人で?」
「ああ。別に付き合ってもらうだけの理由もないしね。大丈夫、うまくやれるさ」
「そう……なんだ」
 彼女は手元を見つめながらしみじみと呟いた。
「余裕が出来たら何か送ってあげるよ」
「うん……」
 しかし彼の言葉に彼女は心ここにあらずといった調子で頷く。そしてふといい事を思いついたようで表情を輝かせながら言った。
「私も……私も一緒に行こうか? 一人じゃ寂しいだろうし」
「いや、さすがにどんなところかも判らないからそういうわけにはいかないよ。それにお前はまだ学生だろう?」
「そうだよね……うん」
 そう呟いて再び彼女は心ここにあらずと言った調子に戻る。
 彼はそんな様子をみて、苦笑しつつもこんな自分を心配してくれる妹の気配りを嬉しく思うのだった。

412

「どうか、時々でよいのです、思い出してください」
 彼女は言った。
 私は一言「ええ」とだけ。
 彼女の存在が許されぬものであることは判っている。彼女自身も判っているからこそ、彼女は己を表面だけでも作り変えたに違いない。彼女は人が記憶している限り存在していられるが、誰もに忘却されればその存在は否定される。だが異端を許さぬ、かの宗教が幅を利かせるこの時代では彼女にとって己の存在すら危ういものだった。相手を間違えば異端として弾劾されるからである。
 自然を読み、動物と対話する。古代において神秘の象徴であり、豊穣のための助言者ともなったはずの存在は、かの宗教のために悪魔と見なされ、彼女の助言を受けていたものたちを悪魔崇拝者として「処刑」してしまった。
 以来、彼女の元を訪れるものは異端狩りを称した武装した者どもであり、その者たちはしばしば山に狼藉を働いた。人々に禁忌として扱われ、異端と見なされた彼女はその力を失ってしまい、その者たちを追い出すこともできなかった。
 そのような無力さ故に山を蹂躙されることを黙認するしかなかった彼女の元に、私という旅人が迷い込んだのだ。

 迷い込み、力が尽きかけていた私は助けとなる声を聞いた。おそらく、私がこの辺りの人間ではなく、遠い異国の特徴をもった風貌をしていたのが大きかったのだろう。
 声は言った。
『私に名前をくれるのなら、私はあなたを助けましょう』
 名前。私は朦朧とした頭でその言葉を反復した。名前……?
 何故名前なのだろう、と思いつつもそれくらいで助けてくれるというのならば、と私は微かに頷いた。
 気がつくと妙に身体が軽くなって眠ってしまっていたが、無事に生きて起き上がることが出来た。場所は倒れた山道ではなく、小屋の中だったが。
「ここは……」
 起きて見回したが、答えるものは居ない。眠る前のやり取りもしっかり覚えている。
 ふと、足元に小さな野鼠がいることに気がついた。こちらをじっと見つめて、逃げ出す様子もない。
 名前が欲しいと頼んだ「私」とは誰だったのだろう。……この野鼠か? いや、誰であろうと助けてくれたことには変わりなく、今目の前に居るのは野鼠一匹。それならば私は相手が人間であろうがなかろうが名前をつけてやらねばならない。約束なのだから。違ったら、そうだな、その時はその時だ。こっけいな自分を笑うとしよう。

 名は、力だ。人の記憶に居ることが重要な彼女にとって、生きるという点においては忘却された古い名前などさほどの価値を持たなかった。もっとも彼女の歴史を綴る上では掛け替えなく、とても重要な名前であることには変わりない。それよりも、今、誰かが強く己の名を記憶に刻んでいてくれるならばそれがいい。
 だからこそ、彼女は名前をつけてくれる人を待っていた。その名を知るのはたった一人でも、今生きる人間が刻む生きた名前が大切なのだ。
 生きたいと思うことに何の罪があろう。それもただ人の記憶に在りさえすれば生きられるというほんのささやかな事。
 私は彼女に名前をつけた。特異な古い神の名ではなく、ありきたりな人の名を。
 私という人間に名を貰った彼女は、野鼠の姿を捨てて女性の姿へと変わった。
 戸惑う私の前で、彼女は新しい名を口の中で呟くと、華の様に微笑む。

 私が回復するまで幾日か世話になり、彼女の元を辞すまでに私と彼女は随分と色んな話をした。というよりも、彼女が私や世界の話を聞きたがった。
 彼女は時々でいいいから思い出してほしいと告げた後、近くに来たら立ち寄ってくださいと、本当はそちらが本心だろうについでのように小さく付け加える。私は頷いた。正直なところ、彼女が知る古い時代の思い出話は本当に面白かったし、興味をそそられた。私が何一つ用事のない身ならもっと留まって居たかったのだ。
「ところで」と私は別れ際に一つだけ質問をする。
「まだ山に残るのかい?」
「ええ」彼女は一度同意してから、
「行く宛ても、ありませんから」
「……そうか、うん、また来るよ」
「お待ちしています」
 叶うなら、次は彼女を迎えに来よう。そう思った。

411

 人にこっぴどく傷つけられたり、裏切られたりするとついその飲み屋に足を運ぶ。
 その飲み屋の店主は猫だった。喋る猫だ。猫又である。
 人妖共存法によって市民権は得ているものの、衛生面の問題の不安、そして妖怪に対する先入観や偏見からか、僕は他に客が居るのを見たことがない。
 それでも店を閉じる様子もなく営業しているということは妖怪の集まりでもあるのか、そもそも副業であるかのどちらかであろう。
 時折店主の娘という人が酌をしてくれたりするが、中学だか高校だかの制服を着て上に割烹着を羽織っている人間姿の娘を猫又の娘と言うのはどうにも――いや、これ自体偏見なのかもしれない。だけど正直な話、人の顔は見たくない、という時にその娘を相手にするのは少々辛いところもあった。
 僕は平時は酒を飲む習慣がないので殆ど顔を出すことはないのだが、それでも店主はぶっきらぼうながらもちゃんと僕の顔を覚えてくれている。正直に言うと、僕はこのぶっきらぼうな猫又の店主が好きだった。
「ん」
 無愛想に店主が酒を出す。頭の上に盆を乗せて、その上に酒があるわけだがそれがまた一芸になりそうなほどに均衡が取れている。
 この酒は日本酒だろう。だけど他では飲んだことがないし、店主に聞いても「名前は知らん」の一点張りだ。もしかしたら仲間から回してもらっている自家製なのかもしれない。メニューにも「酒」としかなく、この店で頼むなら一種類だということをおもむろに語っている。
「うどん食うか」
 酒をちびちび飲んでいると店主が言った。
「……いただきます」
 僕は答える。どうも、この店にはうどんといっても二種類ある気がする。一つが普通注文してでてくるうどん、そしてもう一つが店主が自主的に出してくれるうどんだ。どう違うかと聞かれれば答えるのは少し難しい……もしかすると僕の頭が酒でバカになっているだけなのかもしれない。ツユが違うのかメンが違うのか、とにかく後者の方は妙に旨いのだった。ふらりと立ち寄った時に食ううどんだって決してまずいものではないのだが、ひたすらにへこんでいる時に出されるうどんは格別だ。
 僕は暗い顔でずるずるとうどんを食べる。特に会話もなく、店内は僕がうどんをすする音と、上から聴こえるテレビの音、あとは微かに聞こえる外の音が混ざり合ってひたすらセンチメンタルな気分になる。たまに気づいたら泣きながら食べている時もあるが、それでもただ黙々と食べる。
 食べ終わって金を払うと、
「また、こい」
 店主が言う。ほとんど会話らしい会話もないが、この店は僕にとってとても掛け替えのないところなのだ。例え店主が妖怪でも、いや人ではないからこそ、そうなのだろう。自己満足なのは判っているが、なんだかその事を思うと妙に自分が好きに思えるのだった。

410

 岬にある小屋に住んでいる爺さんの家には、凄く不思議な代物がある。
 それは虹色の砂時計である。砂の粒一つ一つが違う色をしており、非常に近い色はあれども同じ色はただのひとつとしてないように感じられる。
 そしてその砂時計の最大に不思議なところは逆さになっているのに、下には殆ど砂が落ちていないということだ。詰まっているわけではないらしい。
「この砂時計にある砂が一粒落ちる時は、どこかでその惑星にあった文化や文明などといったものが、多分星ごと滅んだ時だ」
「じゃあ宇宙にはこの砂時計の分だけの惑星があるの? この星の砂も入ってるの?」
 と、僕は聞いた。
「そもそも砂がない惑星もあるから、そうでもないさ。誰かが入植している惑星はもっとあるだろう。この星の砂は、当然入っている」
「じゃあその砂時計からこの星の砂が落ちるとこの星は死ぬの?」
「さぁなぁ……。砂が落ちてから星が死ぬのか、星が死んでから砂が落ちるのか判らないな」
「でもこの星が死んだらその砂時計も壊れちゃうんじゃないの」
 爺さんは僕が質問ばかりすることに気を悪くした様子もなく、嬉しそうに答える。
「なぁに、他の星にもコイツと同じもんがあるからな」
「そうなんだ」
 僕は改めて虹色の砂時計を眺める。綺麗だった。縁も木彫りで何かの動物を模したものが彫られていて、どことなく神秘さがある。
「あ」
 僕が見ている前で緑色をした一粒の砂が下に落ちた。
 嗚呼、今この瞬間にたくさんの人が、一つの星がなくなってしまったのか。そう思うとただ砂が一粒落ちただけだというのに、何だか非常に物悲しく思えるのだった。

409

 人気お笑い芸人だった彼は、デビュー当時からまるで子供が夢を語るかのようにこう言っていた。
「死ぬときは、豆腐の角に頭をぶつけて死にたいんだ」
 それがきっかけとなったかは定かではないが、ファンやマスコミから天然で変わった人という性格付けがなされ、堅実なネタ作りもあってバラエティに引っ張りだこの一躍時の人となった。
 お笑い芸人としてスタートして二十数年が経ち、彼はライブ中突如引退を宣言をする。
 色々な声が上がる中、彼が唯一の理由としてあげたのが「豆腐を作るから」というものだった。
 そしてその発言は瞬く間に広がり、引退までの最後の一年は「やっぱり天然で変わった人だ」と全盛期に劣らぬほどの人気を集めた。
 その間に彼の元に色々な豆腐が送られてきた。しかしどれも市販のものだったので「死ぬにふさわしいものではない」と普通に食した。中には鉄製で、外見だけ豆腐に似せてあったものなどもあったが、「大豆から作られる豆腐でなくてはならない」と彼はそれを持ち帰って飾り物にした。
 彼が引退してからも、数年に一度くらいテレビ局が彼の元へ取材をしにきたが、彼は「まだまだです」と言って笑いながら自分で作った豆腐を振舞った。
 彼は本当にずっと豆腐を作り続けていた。彼の豆腐は評判になり、もともと「死ぬための豆腐を作る人」という先入観もあって奇妙な人気が起こり、彼は時折売るための豆腐作りをすることもあったが、いずれにせよ豆腐から離れることはなかった。
 豆腐作り暦が芸暦を超えた頃になって、彼はある日自宅で倒れているのを発見される。その頭の下には何故か豆腐が飛び散っており、死因は肉体的なものであったとはっきりしているにも関わらず、彼を知るものは彼は豆腐の角に頭をぶつけて死んだのだ、とまるで生涯の目標を達成した男を語るように話すのだった。
408

「っつう……」
 たっぷり数分はうずくまり、少女はぶつけた後頭部をさすりながら起き上がる。そこは見知らぬ森だった。
 学校の屋上で寝ていただけだというのに、どういうことなのだろうと少女は思う。
 寝ていて、寝返りをうったら急に浮遊感に襲われ、なんだと焦る間もなく何かに思いっきり頭をぶつけて、痛がる間もなく地面に体を打ち付けて今に至るのである。
「なに……ここ」
 ここはどうもよくない気がする。あまり長居をしてはいけない。直感がそう告げる。
 だが長居をしたいとは微塵も思わなくとも、逃れる場所がない。
「くっ」
 まだ眠りから覚めていないのか。少女は自分で自分を叱咤し、頭にかかったもやを振り払うかのように頭を左右に振る。
 そして立ち上がろうとしたところで、
「…………」
 背後から首筋に剣が突きつけられた。冷やりとした感触に体が硬直する。
「何者か」と、背後から剣を突きつけている誰かが少女に誰何する。
 声は低く、底冷えするような音だった。
「あー、えーと……ですね」
 頭が真っ白になる。身じろぎ一つしただけで剣に力が入り、今にも首を斬り飛ばさんとする。
「その、まずは剣をどけて貰いたいのですが……。ほ、ほら、私この通り丸腰無抵抗ですし」
 真っ白な頭でそれだけをやっとのことで告げた。さらにはゆっくり、恐る恐ると両手をあげてみせる。
 すると少しして、少女の背後に居る誰かは少女の言に納得したのか剣を退ける。
「何者か」変わらぬ調子の声が投げられる。
「所属と階級を答えよ」
「…………へ?」
「所属と階級だ。そのような格好をした者を私は知らぬ。さらに丸腰とはいかなる用件か」
「その、私は……」と言いながら少女は必死で考える。
「斥候か」
「へ? あ、いや、違うんです、えーとですね……」
 斥候とか所属だとか階級だとか何がどうなっているんだ、と喚きたい気持ちになりながら考える。どうやら初っ端からここまで警戒されてしまっていては自分が右も左も判らない一介の学生であるとは信じてもらえないだろう。
 少女もそんな状況でありながら頭はフルで回転している。視覚情報からできる限りの判断をしたいところなのだが、不気味なまでな薄暗さを作る木々が、草が生い茂り人が踏み入れた後もないような大地が、少女の常識を軽く吹き飛ばしてしまう。
「……そのようななりで私を殺そうなどとは甘く見すぎだな」
 ぼそりと背後に居る誰かが呟く。
 ……ちょっと待て。少女は心の中で呟く。殺す? ひょっとして何かとんでもない誤解が起きているのではないか。
「あ、あの、殺すというのは一体……」
「…………」
 少女の問いに帰ってきたのは無言だった。
 よし、それならひとつ自分で考えてみよう。考えられることは一つしかない。一体自分は何にぶつかったのか。何に頭をぶつけたのか。
「ごっ、誤解です誤解です私はそんな意図は微塵もなくてこれはとんだ事故というか突発的で偶発的……な……?」
 動くな、という言葉も忘れて振り返り弁解を始めた少女だったが、言葉は尻すぼみになって消えた。
 理由は、背後に居た誰かを見たからである。そこに居たのは細身ながらも筋肉のついた男が……と、顔から下へと視線が向かっていき、嫌でも目に入る。腹の辺りから下はヒトのそれではなかった。毛深く、しなやかで先に蹄のついた細い足。そしてその後ろにもう二足が見えている。
 馬に乗っているわけではない。体の半ばからそうなっているのだ。
「あ……え……?」
 少女は男の顔と下半身を交互に見る。少女の視線に男の表情は険しいものへなっていたが、少女は気づかない。
「よほど死にたいらしいな」
 少女が我に返ったのは目前に剣を突きつけられてからだった。
 少女は無言で首を横に振る。必死だった。
「…………」男はそんな様子の少女を白い目で見つめた後、
「立て」
 少女は男の言葉に黙って何度も頷き、すぐさま立ち上がろうとするが腰が抜けているのかちっとも立てない。
 だが男には従う意思がないものと見えたらしい。少女には意味が判らなかったが何か短い一言で怒声を上げて少女の胸辺り、つまり心臓部に向けて剣の切っ先を僅かに食い込ませる。
 少女の顔は蒼白となり、もはや口を開いてはいるものの言葉も出ない。
 その状態で、数秒。
 すると次に男は何故か眉をひそめ、剣を鞘に収めた。そして少女の眼前で手を振って見せるが無反応。少女は放心してしまっていた。
 男は渋い表情で何か考え込んだ後、嫌々といった調子で少女を脇に抱えて森の中を何処かへと歩き始めた。

407

【明日は適正検査の日だ。気合入れていかないと。】

 彼女の最後の日記にはその一文が記されていた。適性検査、とは何であろう。少なくとも彼女の通う学校を初めとした彼女の生活圏を当たってみたが、適正検査などという言葉が出てくることはなかった。月の決まった日、週ごとの曜日、その辺りを総ざらいあたっても適性検査という言葉が出てきそうな状況が浮かび上がらない。
 彼女は何処へ向かったのか? 何の適正だったのか?
 彼女がいなくなった理由としては、その適性検査とやらに通ってしまったという可能性である。何かに適正であると判断され、そのまま連れ去られた。その可能性が濃い。
 彼女はその適性検査の翌日から行方をくらまし、家にも帰っていなければ学校にも行っていない。当然、彼女の姿を見たものさえ居ない。まるで草薙綾乃という存在が消えてしまったかのようだった。

406

「先輩は、ガラスの国には行かれませんか」
「ガラスの国?」
「はい。誰も居ない、そんな国です」
 僕の後輩の草薙綾乃は、何人もの人を堕としたという微笑みを浮かべていった。以前彼女に告白した後輩に聞くと、彼女の笑顔はコンクリートに咲いた一輪の花のようだとかこっちが赤面してしまうような言葉を散々言っていた。
 その彼女があまり交流もない僕のところに持ってきた話は、なんとも奇妙で、御伽噺のようだった。
「うふふ、興味ありげな顔ですね? 先輩、普段から馴れ合うのはキラいだって顔してらっしゃいますから」
 彼女は僕がまだ何も言葉を返さぬうちからそう言った。
「そうだな、あるかないかで言えば興味はあるね。君の僕に対する印象は別としても」
「まぁまぁ。悪気はないんですよ?」
「……ま、いいけどね。ガラスの国だっけ? それで、行くとはどういう意味だい。話が見えないんだけど」
「はい! 実はですね……」
 草薙が話すにはガラスの国はまだ「完成」していないらしい。どういう意味かと問うと、まだできて日にちが浅いということだった。故に、人もいない。そこで僕に行ってみないかと話を持ちかけてきたのだ。怪しいことこの上ない。本当に御伽噺のようだ。僕が主人公だとするならば、草薙は悪い誘惑者といったところか。僕がそこまでのお人よしに見えたのだろうか? 僕は当然のように断るつもりでいた。ほいほいと乗るには問題が多すぎるからだ。
「大体、学校はどうしろって言うんだ? 長期休みがあるわけでもないのに」
「その辺りは大丈夫です。引き受けていただかない限りあまり細かいこともお話できないのですが、心配は要りません。損はさせませんよ?」
 それから草薙はいい忘れたことがないか思い出すかのようにふむと考え込み、
「夜が疼くのでしたら一晩くらいお相手しましょうか?」
 草薙はクシシ、とからかいの笑みを浮かべて言う。
「遠慮しておく……やっぱり申し訳ないけど、その話はお断りさせてもらうよ」
 何の脈絡もないその申し出に戸惑いつつも、僕がきっぱりと多少は後ろ髪引かれる提案と怪しすぎる話に対して拒絶の言葉を口にする。草薙は残念そうな顔をした。念のため付け加えておくと、残念だったのはおそらく後者に対してだと思う。
 そして次の瞬間に浮かべたぞっとするような笑みを僕は忘れないだろう。挑発するような、誘い込もうとするような魅惑的な笑みを。
「そうですか。……先輩は夢をかなえようと思いませんか?」
「……ゆ、ゆめ?」
 その一言を繰り返すだけでも、僕は息を飲み込まなければいけなかった。草薙の底冷えする笑顔で上目遣いに見られ、少なくともその瞬間だけは何よりも恐ろしいと思った。
「そう……」と言って草薙は指先を紅い唇に当てた。「誰もいない所にいってみたい……6年前に、ある小学校の6年2組に居た誰かは書きました」
 僕だ。今の今まで忘れていたというのに、指摘された瞬間にその記憶がはっきりと蘇る。確かに、そんなことを卒業アルバムか何かに書いた。だがなぜ彼女がそんなことを知っているというのだろう?
 僕の唾を飲み込む音が、緊張が張り詰めた空間に響く。誰もいないところ……。本当にそんなところが存在するのか。確かに、その時書いた夢はまさしく「夢」であった。しかしそれは小学生ゆえの他愛無さからくるもので、例えば「宇宙大統領になりたい」「世界征服をしたい」そのような荒唐無稽と言ってもいいくらいの、そんな調子で書いたものだったのだ。それは確か小学校の先生が「現代では人が完全に居ない場所というのはあまりない」と言っていたのが発端だったと思う。廃屋とか、田舎とか、人が居なさそうな場所ならいくらでもあるが、廃屋だってもとは人が居た何らかの建築物であり、田舎だって人が住まう地だ。人が居ないというには抵抗がある。廃屋にだって好奇心あふれる廃屋好きや肝試しの輩がくるかもしれない。僕が考えたこれも立派な可能性であり、人が完全に居ないということは否定している。もちろん無人島とかそう言った場所ではない、人の手が加わっている場所での話だ。ならばそういった場所は存在しないのか? 長くなったがそれ故に記された回答であったはずだ。
 大分好奇心が刺激されて行きたくなってきたが、それでもまだ怪しさを捨てきれない。僕は少し考える時間を稼ぐために質問を投げかける。
「ところで何で君がそのような話を?」
 すると草薙はいつもの表情に戻ってにこやかに答えた。
「私、勧誘に大抜擢されまして……なぁーんて、ね。先輩、そんな嫌そうな顔しないでください。冗談ですよ」
「別に何でもいいけどね……大体、人を誘っているけど君は行ったのか?」
「もちろんですよー。本当、見事なものですよ。もう海外に行くなんかより貴重な体験かもしれないです」
 草薙のその答えは、僕にとって少しばかり意外だった。
「行ったのか?」
「え? 行きましたよ?」
 ふむ、と僕は考え込む。草薙も実際に行ってきたと言うのならこの話は信じてもいいのかもしれない。うそ臭いのではあるが。実際に行った上で大丈夫だ、と言われると信じられる気がする。
「じゃあ行ってみようかな……」
 ぼそりと僕が呟くと、草薙はにんまりと笑って素早く僕の手にチケットを一枚握らせる。草薙の手は不思議な温かさを持っている気がした。何故か握られた部分がじんわりとして、包み込まれるような感覚がある。
「このチケットをですね、枕の下に置いて寝るんです。妖精さんが迎えにきてくれますよ」
 そう言って握らされたチケットは長方形で、『ガラスの国へご招待!』という文字とガラスでできているらしい車、道路、木が油絵ちっくに描かれていた。まるで……本当に何かのアトラクションチケットのように見える。
「…………」
 馬鹿にされているのだろうか。僕は思わず草薙の顔を見た。いつからこんなファンタジーの住人になったんだ?
「なんですか?」
 草薙は何が嬉しいのか、妙にニコニコしてこちらを見つめている。
「あ、いや……。で、ガラスの国というのはどこにあるんだい?」
「はい、ですから」そう言って草薙は笑顔で先ほどと同じくチケットを枕の下において眠るのだ、ということを繰り返す。
(うーむ)
 こんなこと考えたくはないが、草薙は精神でも病んだのか? いたずらにしては手が込んでいる。
(まぁ、もしそういうネタだというのなら適当に話でも合わせておけばいいか)
 そう結論づけて、「わかったよ。そうする」と答えて草薙と別れを告げた。

(ガラスの国、ねぇ……)
 夜、自室で机に肘をついて草薙から貰ったチケットを眺める。何か特殊加工されてるわけでもない。本当にただ印字された紙切れだ。枕の下、と言っていたから忘れないうちに枕の下に挟んで、眠くなるまで静かに本を読む。
 そうして数時間ほど本を読んだ後、僕はあまり信じていなかったというのもあるだろうが、そのガラスの国云々を忘れて眠りについた。

 僕は習慣から、いつも目覚ましがなる少し前に目が覚める。その日も同じく目が覚め、まず目覚ましのスイッチを切ったところで何か妙な違和感を感じた。
 居間に出て、パンを焼き、食べる。いつも通りに。母さんはまだ帰ってこないようだ。母さんは一昨日から家に帰ってきていない。しかしこのように家を空けることはそう珍しいことでもなかった。だが伝言ひとつ残さず、というのは妙だ。かと言えど考えても始まらない。母さんが帰るかどこかから電話が来るのを待つだけだ。一月近く家を空けた挙句にどこかで散々迷惑をかけて家に電話が入ったこともある。場所はいつもばらばらなので、ただ待つしかない。
 朝食を終え、準備をし、外に出て、初めて違和感の正体に気づいた。
(音が……ない)
 一切の音がなかった。自分の足音が世界の果てまで響き渡るような、恐ろしいほどの静寂。見渡す限り動くものが存在しない。人も動物も車も見えない。視界が捕らえるもの全てが死んでいるかのようだ。風さえも途絶えており、木の葉一枚揺れる様子がない。あらゆるものが世界に拒絶されたかのような感覚になる。動くものが日常から取り除かれて消え去ってしまった。
 でも本当はわかっている。おそらく、世界に拒絶されたのは……。
(ガラスの国、ね……)
 なんだろうこれは、と思ったところでふと思い出した。これが単なる偶然の連鎖が生み出した景色ではないというのならば、おそらくはこれこそがガラスの国というものなのだろう。
 バカらしいと思う気持ちがある反面、恐ろしさがこみ上げてくる。
(学校へ……学校へ行ってみよう)
 通学の途中も、シンと静まり返っていた。信号はその機能を停止して道路脇のオブジェと化しており、またそれによって困る人や車の往来もない。活気という活気が完全に消えてしまっている。正月に一度外出したときはこれに近かった。だが、まだそれでも人は居たし車の往来はあったしで街は生きていたと思う。これは完全に死んでいる。
 考えているうちに学校へ向かっていたはずの足は街中へと向いていた。そして案の定、街をいくら行っても状況が変わることはないという現実を知る。
 ふぅ、と思わず息をつく。
 嵌められたな。そう思わざるを得ない。
 僕はよろめく様にデパートのショウウインドウに寄りかかる。瞬間、ショウウインドウの側から何か動くものが見えた気がして、慌てて振り向く。
 最初は気のせいかと思った。ショウウインドウには自分の後ろ側、つまり道路と横断歩道がうっすらと映っている。後ろを見ても相変わらず誰も居ない。だが、そのショウウインドウの中の道路と横断歩道にはうんざりするほどの人が往来しているのだ。
 僕は暫く唖然としてその景色を眺めて、薄々感づいていた正体を確信する。
(ガラスの国、か……。何のつもりだか知らないけど、趣味が悪いぞ草薙……)
 つまるところ、「向こう側」に僕一人だけ飛ばされた挙句閉じ込められたのだ。もしかしたら、まだ帰る方法は残っているのかもしれない。
 でも、どうやったらガラスの向こう側なんてところに渡ることができるんだ?
 さてさてどうしたもんかな、と困って空を見上げる。こんなところでも、空だけはいつもと同じように在った。

405

姉さんが最近僕に優しい。
でもそれに比例するかのようにボーイズラブ関連の冊子が増えており、わざとらしく僕の部屋にも置いていくので何か意図があるような気がしてならない。

404

Not Found...

403

 街中の、普通なら見過ごしてしまうような細い路地を少し行った所に南京錠のかかった扉がある。
 多分、日常的に行き来する人でさえもそれには気づいていないだろう。
 私は直感的にその扉の向こうには何か未知の世界があると感じていた。何せ以前扉の下の隙間から向こう側を覗き込んだところ、延々と一本道が続いていたのだ。
 無論、その扉の反対側と思われるところには普通に家があり、そんなに長い道など存在するはずもない。家の側から辿ってみると細い路地に出ることはできるが、そこは扉ではなく塀になっている。
 私はいつも暇になると錠が外れてやしないかとよく見に行ったものだった。しかしいつ行っても、まるで誰かがこまめに付け替えているかのようなピカピカの南京錠は決して外れる様子はなく、私はその度に妙な安心を感じつつ残念な気持ちになった。
 だがある日ふらと見に行くと、永久に外れまいと心のどこかで思っていた南京錠は完全に錆付いた状態で外れていた。南京錠は辛うじて扉の片側に引っかかっているだけで、扉は僅かに開いている。
 私は驚きからしばらく立ちすくんだ後、恐る恐る少しだけ扉に触れてみる。扉はさらに少しだけ開いた。私は慌てて手を引っ込めるが確かに扉は開いており、中を伺うことができた。もちろん扉の向こうへ行こうと思えば軽く行けるだろう。
 扉の向こうはやはり地平線の向こうまで道が続いていた。横には家やら店やらがずらずらと隙間なく並んでおり、それでいて目の前から伸びる道だけが曲がることも建物に遮られる事もなく延々続いているのだった。そこはどこかの通りのようでもあったのだが、人の気配がない。家もよく見たら長年無人のまま放置されたようにも見え、店も看板は掲げてあるものの引き戸をあけるような形で、どうも相当古いものであるように思えた。
 私はその道に足を踏み出せることを長年密かに心待ちにしていたはずなのに、いざ前にすると足を踏み出すことはできなかった。

 結局その日はそのままに、翌日改めて行ってみると扉は跡形もなくなっていた。ただ塀があるだけだった。隅っこのほうに錆付いた南京錠が落ちている。
 ああ、きっと誰かがあの道に足を踏み入れたのだ。一体、あれは何だったのだろうか。
 昨日は臆したくせに、無くなったと知ると途端に後悔に襲われる。
 きっと、きっとあの道には忘れられた何かがあったに違いないのだ。
 自分でも愚かしいとは思いつつも、どうしようもない後悔に心を染められる。私は目の前の、昨日まで扉だった場所にある塀を指先で引っかいた。

402

 崩壊した世界で生き残った少女は放射能障害で失明していた。全てが一変した世界で視界を掴めぬというのは死に直結する。言わば少女は「まだ死んでいないだけ」にすぎない。
 食物の摂取も適わず、ろくに動くこともできない。地面はガタガタで、倒壊した建物や上がった水位で非常に不安定であり、たとえ目が見えていたとしても移動は困難を極める。
 少女は幼かったが、それなりに状況を理解しているようであった。その様は理解している、というより諦めていると表した方が相応しいかもしれない。周りの空気、時折建物が倒壊する音ややけに近い水音、そして話し声がもう何日も聞こえない。きっと、生きているのは自分だけなのだ。みんな死んでしまったのだ。否定したくても理解せざるを得ない現実がそこにあった。
 少女は飢えていた。もう何日かろくにものを口にしていない気がする。
 崩壊直後は半壊した家の中に残っていた冷蔵庫まで手探りで辿り着き、そこに詰められていた水と非常食でしばらく持った。
 崩壊前、既に近いうちに大地に何らかの大きな変動が起こることが予想されていたので、何処の家庭でも冷蔵庫を非常食やそれに類するもので満杯にしていたのだ。電気は止まっていたが、先の理由の為に幸い腐るようなものは入っていなかった。だが仮に腐るようなものがあったとしても少女は口にしていただろう。
 少女は寝転がって息をしている。それしか、することはなかった。
(私…このまま死んじゃうのかな…)
 死にたくないという気持ちがある一方で、みんなのところへ行けるならという消極的な受け入れの気持ちもある。
 どこか遠くで建物が崩れ落ちる音に混ざって、意外なほど近くでも何か聞きなれない音がした。だが反応するほど少女には体力も希望も残っていない
 しかしその音は繰り返された。同じ音。自分の方へと向かってくる。
(……!)
 救助の人間に違いなかった。
 少女はここで何もしなければ見過ごされてしまうと思い、とっさの判断でありったけの体力を使って腕を空に伸ばした。
 腕を伸ばすという行為はこんなにも辛いものであったのか。ただそれだけの動作に、残る生命力を根こそぎ持っていかれそうな辛さがある。これで気づかれなければもう終わりだ。
 少女の手が上げられていたのはほんの数秒ほどであろう。その手が力尽きて再び地に落ちるその時、少女の手を、誰かの手がそっと包んだ。それはお世辞にも温かいなどとは言えない手だったが、他人という存在がこれほどまでに力強かったことはかつてない。
「たすけて」
 少女が擦れた、消え入りそうな声で呟いたのが唯一その言葉だった。自分はまだ生きたいのか。そう己に問いかけても少女は答えることができない。だが、死にたくないという気持ちが強く渦巻いているのも確かなのだ。
 少女の手を掴んだ人には、その声は聞こえなかったはずだ。少女は声に出したつもりであったが、それは起伏のある呼吸音程度としてしか発音されていなかったからだ。だがそれに応えるように、閉ざされた視界の向こうに居る相手は少女の手を心なしか強く握った。
 少女が死ぬまでの七年間、その人はずっと少女と共に居た。


 ロボットは崩壊した世界を理解していた。人はみな死んだのだと。自分の使えるべき人間を含めて、みな死んだのだと。生物という生物が死に、原初に限りなく近い状態に戻ったのだ。
 ならば自分はどうかと問いかける。幾度も繰り返される問い。繰り返される要領の得ない回答。それもそのはずで、「人間が死に絶えた中で取るべき行動」などというものは想定自体されていないために、どんな材料を使っても回答に辿り着くことは不可能に近かった。
 そのロボットはたまたま全壊を免れていた。腕は潰れ、足も瓦礫の下敷きになったが、他の機能停止したロボットから代用することができた。その結果酷く不恰好なものになったが、それを気にするほどの心は持っていない。
 ロボットは誰か生存者を探すことにした。己一人でそこに留まっていたところで、無為な日々を繰り返すだけだということが判りきっていたからだ。
 捜索を開始してからはロボットは精力的に動き回った。しかし相当広範囲、細かい捜索だったにもかかわらず、生存者はただの一人として見つからない。ロボットは絶望的な捜索を続けた。音から探すには周囲が五月蝿すぎ、視界で探すには限度があった。そんな中で生命反応を見つけたときのロボットはどう思っただろうか。多分、嬉しいと表すべきだったのだろう。
 ロボットは危険な場所すらも突っ切って生命反応の方へ向かった。既に世界が崩壊してから長く、例え生きていても衰弱しきっている可能性が高かったからだ。
 はたして生存者は衰弱していた。すぐにでも栄養を摂取せねば死んでしまうだろうということは傍目からでも判った。
 それほど弱っているというのに、生存者はロボットの存在に気がついたのか、生きていることを示すかのように腕を上げた。だがすぐに体力が尽きたのか、手が下ろされかける。ロボットは己の判断で少女の手を掴んだ。おそらく、ここはそのような行動をとったほうが生存者を安心させられると思ったからだ。
 そしてロボットの考えたとおり、生存者の顔に弱々しい安堵が浮かぶ。
「たすけて」
 ロボットの聴覚はその声にならなかった呼吸音を捕らえた。「ご命令のままに」ロボットはそう答えようとしたが、ギ、と小さく軋む様な音がなったのみで音声化ができない。ロボットは首を傾げる。ロボットは声を失っていた。だが彼自身にはそれに気づいても異常が出ている部分がわからず、故に自己修理もできない。ロボットは相手の感情を考慮してなんらかの反応を返すべきだと思い、ただ手を少しだけ強く握り返すという言葉なくとも雄弁な仕草で返した。
 少女が死ぬまでの七年間、彼はずっと少女と共に居た。
 彼は少女の為に住居を修理し、少女の為に飯をこしらえ、少女の為に全ての世話をした。
 ただ、そこには言葉がない。
 少女は自分の世話をしてくれる彼の為に何かしら話しかけた。考えたこと、感じたこと、少女は己の全てを世話をしてくれる彼の為に言葉にした。返事がなくても構わなかった。話している間、彼は決して去ることはなかったし、少女が不安に陥れば手を握ってくれたりもした。
 ただ、そこには姿がない。
 少女はある日を境に海に触れたいと思うようになった。理由は、海にぷかぷかと浮かぶことができたら、という些細な考えが発端だったのだが、それが段々に強くなっていったのである。その度に彼は少女を押し留めたが、少女は納得せず、彼が居ない間にこっそりと海に出ようとした。だが家をでれば当然のようにそこは闇に閉ざされた未開の地であった。長年かけて彼が少女のために作りかえたその家は、目の見えぬ少女には戸惑うばかりだったのだ。少女はそう長く歩かぬうちに急に地面がなくなって落下し、海に落ちた。だがその海は少女が夢見たものとは程遠い気がした。それは少女が落下の際、漂っていたコンクリート片に額をぶつけたのも一因だったろう。少女は浮かぶどころではなく、溺れない様に必死にもがいた。
 少女の力が尽きるより早く彼が戻ってきたお陰で、少女は事なきを得た。少女は彼に抱きついて「ごめんね」と泣きじゃくる。彼は言葉を失ったおかげで文句を言うこともできず、人間味の薄い単調な要素でできた顔で困っていた。
 以来少女は大人しくなっていたが、その日を境に生命力を減らしていった。その海のことが原因とは彼には到底思えなかったのだが、実際のところは海への夢を挫かれ、気力を失ってしまったのかもしれない。少女の狭い世界では致命的なことだったのだろう。

「今まで助けてくれてありがとう。…あと先に死ぬことになって、ごめんなさい」
 少女の視界を奪った障害は年月を経て全身に回り、ついには少女の生命を奪うに至る。少女は死ぬ数週間前にぽつりと呟いた。その頃には、少女は口を開くことも少なくなっていた。口を開くことすらも少女の生命力を削るだろう、と思わずにいられないほど、少女は衰弱していたのだ。

 少女が死に、ロボットは丁寧に丁寧に一年近くかけて少女の為に墓をつくった。ロボットはその墓前にて人がかつてそうしたように祈るような格好をして、そのまま二度と動くことはなかった。

401

 彼に守護霊が居るのだということは誰もが知っている。写真を撮ると、なぜかいつも写るのだ。
 彼自身も特にどうとも思うことなく受け入れているようであった。侍風の男と、和服を着た妙齢の女性。二人一組なのか、必ず片方しかいない、という事態になることがない。
 写真を撮ると守護霊の二人もカメラに向かってピースしたりウインクしたりと中々茶目っ気を見せるが、時々不意打ちで彼を撮ると大概いちゃついてる場面だった。女性の方が頬に手をあてて照れていたり、男の方がそっぽを向いて照れていたりと、そんな様子を見ながら、彼女も出来た事がなく地団太を踏む彼を横目にいいなあと思うのだった。